生レル

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 家では、妻はいつも卵を抱いている。  妻は卵を抱いたまま出勤する私を見送り、仕事を終え家に帰りつくと、卵と妻が私を出迎える。  こんな生活が、もう二年も続いている。二年も、だ。  通常であれば、普通の妊娠出産と同じく、卵でも一年経てば子供が産まれる。古風な言い方をすれば十月十日か。卵であっても、ほぼ同じ期間をその中で過ごし、卵の出産機能により産道を通ると同様の経験を経て、産まれる。鳥やその他の卵生の動物と同じように、自らが卵殻を割り産まれてくるのだ。それなのに、私と妻の卵は二年も産まれることなく過ごしていた。  私達の卵を担当している産婦人科の主治医は様々な検査後、「無理に外側から卵を割れば、中の子どもが死んでしまうかもしれない」と言った。「とりあえず今の状態で様子を見ましょう」と言われたのが一年前だ。そうして、何もしないまま一年間が過ぎた。  妻は子供が予定日通り産まれないと判明した一年前、仕事を辞めて卵につきっきりになることを決めた。  私は世間的にも高額な給与をもらえる仕事に就いており、妻が働かなくても生活に特段の支障はない。とはいえ、健康で働ける状態の妻が働かないというのは世間体が悪かった。しかし、卵と常に一緒に居たいという妻を否定する気にはならなかった。妻は今までの一年間、ほとんどの時間を卵と過ごした。   こうして卵を膝に抱いていると、殻の丸い曲線が手にしっくりし、愛着がわく。低く響く機械の振動や音を手のひらに感る。卵を優しく揺らすと、揺れに合わせて柔らかく動く。  早く産まれてほしい。早く顔が見たい。そう思うのに、卵の中の子どもは、一向に産まれ出でる気配はなかった。  この中に私と彼女の子どもがいる。でも、会いたいと殻を割った途端、子どもは死んでしまうかもしれない。すぐそこに居るのに、殻越しに触れることもできるのに、姿を見ることも声を聴くこともできない。分厚い殻に阻まれる。  すぐそこに居るはずなのに、居ない。私が抱いているのは、人の形をした子どもではなく、ただの保育器である卵だ。 「早く産まれておいで。早く会いたいよ」  そう卵に向かって呟く。 「産まれていなくても、そこに私たちの子どもが確かに居るわ。あなたにも見えるでしょう?」  キッチンで夕食の支度をしていた妻は耳聡く振り向くと、私の言葉を理解しかねるといった顔をして、そう言った。彼女には、この卵の殻を透視して中の子どもまでしっかりと見えているようだった。それは、母親特有の感覚なのかもしれない。私の持たない感覚で、卵の中の子どもを捉え、育み愛する。  彼女にとっては、子どもと卵が同義であるようだった。  私は卵を抱え直した。一体私は、いつまでこの子の誕生を待ち続ければよいのだろうか。
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