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前編
……また、いつもの明晰夢だ。
『今はガラス玉しかあげられないけど、騎士になったらホンモノの宝石をあげるよ』
『ありがとう、楽しみにしてる』
……真音は物心つく時から、誰かを待っていた。誰を? それは自分でもよく分からない。どうしてそう感じるのかも。
けれども、それは「悲願」と表現すべき、切ない程に焦がれるものだった。
時折見る「とある夢」の影響なのか? それとも父親が生み出す作品たちの、色鮮やかに彩る魅惑のキャラたちへの憧れと願望が見せる幻想か?
……たった一人で良いから。誰かにとって唯一の、特別な存在になりたい。
同時に、幼い頃から球体のものが好きで。特に祖母が『びいどろ玉』と呼んでいた色とりどりのガラス玉が大のお気に入りだった。特に、そのガラス玉越しに見る風景を好み夢想するのが日課となっていった。
取り分け、緑色のガラス玉がお気に入りだった。それは透き通ったエメラルドグリーンで。見ているだけで癒され、満たされるような気がした。
……長野県佐久市
無風、その上ジリジリと焼き付けるように照る太陽。更に、周囲に生息している蝉という蝉が大合唱を繰り広げているのだから、炎帝が猖獗を極めているに違いない。
卜部真音はそんな事を思いながら天を仰いだ。林檎の木に背を預け、生い茂る葉の隙間からの覗き見る空は小憎らしい程に青い。けれどもギラギラと鬱陶しい程に照りつける炎帝は、葉が遮ってくれるせいで光も暑さも随分と和らいで見える。真音は切れ長の双眸を細めた。濃くて長い睫毛が、象牙色の頬と右の目元にある泣き黒子に影を落とす。
それにしても、随分と葉が勢いよく茂って来たものだ。葉と同じように青々とした林檎は、今口にしたらさぞや渋いだろう。立派に木陰の役割を果たしてくれていて助かるが、そろそろ夏剪定とやらが必要な時期だと思われる。毎回、父親がふらりとやって来て気まぐれに行うから、真音には剪定というものがいつどのようにして行うものなのか詳しい事はわからない。勢いよく伸びている枝葉をジョキジョキバシバシ切り捌く様は、見ていて頼もしく感じる。その反面、不要なもの、実がより大きく美味しくなる為に切り捨てられてしまう枝葉たちに、己を重ね憐憫の情を誘われてしまう。
林檎の木はこの他にも隣り合うようにして二つほど植えられている。この木が一番背が高くて葉が茂っているし、何より真音が生まれた時に植えたというので格別に思い入れがある。その事実を反芻して噛みしめてみると、自分はこの家の一員なのだと思わせてくれる。実際には、人の気持ちと言うものは恣意的で移ろい易いものだし、これが真音誕生記念樹である事を母親が覚えているかどうかは疑わしい。という事実にはしっかりと蓋を閉めて施錠しよう。暗証番号も複雑なものにして、真音本人にしか開けられないものにするのだ。特に、大学生の夏休みは長い。その間、事前に届け出を出さない限り大学の寮からは出る決まりだ。せめてその間は、心置き無く過ごせるように。
だからこの際、三つ年下の妹が生まれた時に植えられた『銀葉アカシア』は、三階建ての卜部家の「シンボルツリー」として過保護に手入れされ続けてているという現実も、忘却の彼方に封印してしまおう。
少し離れた場所には葡萄、更には柿と梨の木がそれぞれ二つずつ、桃と桑の木が三つずつと、三十坪ほどの場所に自由気ままに植えられている。言わば、卜部家の小さな果樹園だ。全て父親の気まぐれで手入れされたり放置されたりを繰り広げているのに、何故か健全に育つ果樹たちの何と逞しい事だろう! 桃は食べ頃ではないか、後で味わうとしよう。
真音は握りしめていた左手をゆっくりと開いた。その薄紅色の唇がゆっくりと弧を描く。木漏れ日を受けて、手のひらのそれがキラリと輝いた。透明感のあるそれは、つるりとした七つのガラス玉だった。真音は祖母を真似て、『びいどろ玉』と呼んでいる。空色、青、黄緑、緑、黄、橙、そして透明のそれらは凡そ直系一センチほどだろうか。
その内の一つ、透明のびいどろ玉を右手でつまむと、目の前に移動させた。その間、左手の玉を落とさないようにしっかりと握りしめる。それから左目を軽く閉じた。こうして、びいどろ玉越しに風景を見ると天と地が逆さまになって映る訳だが。
真音は空想の翼を広げる。
もし空が大地で、大地が空で。玉の中みたいに、何もかもが現実とあべこべの世界だったなら。
誰からも愛される妹と平凡な真音の立場が入れ代わるのだ。
妹は小学校に上がる前、たまたま母親と東京に遊びに出かけた際、芸能事務所からスカウトされそのまま芸能界入りした。因みにその時隣に居た筈の真音は空気のように扱われた。母親からの扱いもそのような感じだから、どうとも思わなかった。「いい歳こいた大人の癖に失礼な野郎だ」と、ほんの少し怒りが燻ぶった程度で。それから『里穂りん』というニックネームで親しまれ、超絶に可愛いらしいマルチタレントとして名を馳せていく。
あべこべの世界の真音だからマノリン? とか? そしたら今この場に居るのは妹の里穂で。真音は沖縄で映画の撮影中だ。溺愛している母親を自身の芸能マネージャーとして侍女のように従え、尽くさせる。更に、愛らしい容姿に夢中になる男子共を数多侍らせてチヤホヤと……
と、そこまで妄想して居心地の悪さと得体の知れない不快感に背中が粟立つ。首を左右に振って溜息をついた。
(今更、お母さんに溺愛されてかしづかれるだなんて何か裏がありそうで怖いし。不特定多数の男子にちやほやされてもちっとも嬉しくないなぁ)
と改めて思うのだった。
(たった一人、私を唯一無二の特別な存在として選んでくれる人。そんな人に出会えたらそれでいい。まぁ、それが一番難しいかもしれないけれど)
ほんの少しだけ自嘲を込めて薄く笑った。ファンタジーでもあるまいし、本当に出会えるとは思っていないけれど。夢を見るのは自由だ。
……マチビト、デモ、コンドコソアエルヨウナキガスル、トオツヒト……
時折、脳裏を掠める正体不明の心の声を無視した。思春期特有の中二病とやらかもしれない。
気を取り直して透明の玉を左手に戻すと、空色の玉をつまんだ。ラムネ瓶に入っていそうなそれを目の前に翳し、それ越しに風景を眺める。逆さまに映る世界は空色がかって見えるから、灼熱の太陽も冷たく感じられる。勿論、ガラス玉越しに太陽を見るのは禁忌、だからそこは想像の世界だ。そこは空の国。地も天も空で出来ている。雨や雪が降っても魔法で解決出来るチートでご都合主義な世界観。
続いて黄緑色に変えて風景を見てみる。こうすると、そこは爽やかな初夏、溢れる新緑に緑の風。猛暑ではなく、常に北国の夏なのだ。このようにしてびいどろ玉の色を変えていけば、そこはたちまに異世界ファンタジーへと彩を変える。
青いびいどろ玉越しの風景は、海の世界。海の底で人魚姫たちが優雅に暮らしている。或いは、竜宮城があるかもしれない。または失われた古代文明が眠っていたり。そこは妄想の世界なのだから、史実や現実は華麗に受け流すべし。むしろ真面目に考察したら負けだ。
例えば、真冬に橙色の玉を通して見る。冬景色は常夏に早変わりだ。冬木立は、紅葉に妄想出来る。
真夜中に、窓の外を黄色のびいどろ玉越しに見てみれば、そこは夜の無い太陽の国で……などと妄想が捗る。
緑色のびいどろ玉は特に愛着があって……
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