姫倉さとりは死期をも悟る 七話

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姫倉さとりは死期をも悟る 七話

 七話 六月七日 後編  どれだけ早くワイパーを動かしても前が全然見えない程の雨が降る中を、一台の黒い高級車が病院の駐車場へとスピードを落とさずに入ってきた。  車が上げた水飛沫がかかりそうになった歩行者は、過ぎゆく車を睨みつけた。  その車は、入口の近くの空いていた枠内に頭から突っ込んだ。枠線に対して少し斜めに止まったが、修正することなく車のエンジンが切れた。  そして運転席から一人の男が傘もささずに飛び出した。少し遅れて、傘をさした女性が助手席から降りて病院の入口へと向かった。  病院の受付に座っているのは今年入ったばかりの新人の女の子。名は新田(にった)。十九時半過ぎということもあり、昼間に比べたら受付を利用する人間は少ない。  新田が「誰も来ないまま交代の時間が来ると良いな」と思っていると、視線の先に何かが見えた。  それは、全身ずぶ濡れのガタイの良いスキンヘッドの男が、病院の入口から一直線に受付の方に走ってきている姿だった。  驚いた新田は「どうか違う場所に行きますように。そうだ、きっとトイレを借りに来たに違いない」と現実逃避をしてみたが、スキンヘッドの男は受付の目の前で立ち止まると口を開いた。 「俺の娘はどこだぁッッッ!!」  ホールに響き渡った一声は、新田を戦意喪失させるには十分過ぎる程だった。  新田の父親は穏やかな性格をしており、学生生活も真面目に過ごしていたこともあって、彼女は男に怒鳴られたことが無かった。ましてやガタイのいいスキンヘッドの強面男である。  新田の目に涙が溜まり、すぐに涙が溢れ出した。 「何泣いてんだッッッ!! 人の話を聞いてんのかッ!?」  受付での騒ぎを聞きつけて、奥からこの道三十年のベテランが姿を現した。だが、スキンヘッドの男が視界に入ると、さすがのベテランも一瞬凍りついてしまった。  しかし、そこはさすがのベテラン。すぐに思考回路の恐怖に携わる部分を切除すると、臆すること無く受付へと歩み寄った。 「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」 「あぁッッッ!? アンタらが電話で呼んだんだろッッッ!!」  男は受付にバンッと手を振り下ろした。手や腕についた水が辺りに散らばった。新田は自分にかかった水を袖で拭った。 「ですから、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」 「早く娘の部屋に案内しろッッッ!!」  男が叫んだタイミングで、病院の入口に一人の女性が姿を現した。その女性の佇まいは、品格と麗しさを醸し出していた。  その女性は速度を落とすこと無くスキンヘッドの男の真横に立つと大きく手を振り上げた。  パァアン、と綺麗な音がした。耳を奪われそうになる爽快な音と共に、受付の方に水飛沫が飛んだ。  その音は女性が男の頭を思い切りビンタした音だった。 「失礼しました。私は姫倉万里子です。娘の姫倉さとりが病院に運ばれたと連絡がありました。どちらに行けばよろしいですか?」  ベテランはあまりにも突然のことに数秒フリーズしてしまったが「少々確認しますね」と返事をした。  新田は誰に言われるでもなくそっとパソコンの前の席を空けると、ベテランがそこに座って何やら操作をした。 「第一東棟の三階にある三〇五号室です。あちらの通路の奥にあるエレベーターから上がって右手にあります」 「ありがとうございます」  姫倉万里子を名乗った女性は綺麗にお辞儀をした。そして、泣いている新田の顔を一度見た後にスキンヘッドの男を睨んだ。 「この娘を泣かせたのはアナタでしょう?謝りなさい」 「いや、泣かせてなんかない。聞いたら勝手に泣き出したんだ」 「謝りなさい」  万里子は鋭く冷たい目でスキンヘッドの男を睨みつけていた。新田はその眼差しが自分に向けられたら、恐怖のあまり気絶してしまう自信があった。 「わ、悪かったな嬢ちゃん」 「あ、いえ。その」  新田は何と返事をしたら良いか分からず、誤魔化すように笑った。スキンヘッドの男もそれにつられて笑おうとしたその瞬間、パァアン、と再びあの綺麗な音がした。  二回目のビンタは頬にヒットした。 「『悪かったな』は謝罪の言葉じゃありません。早く謝りなさい」  男は何か言いたげな顔をしたが、万里子に一蹴され反論することをやめた。 「も、申し訳ありませんでした」  スキンヘッドの男が深々と頭を下げた。その時に、頭のてっぺんに真っ赤な紅葉が焼き付いているのが新田の目に飛び込んできた。 「ブフォッ」  新田は思わず笑ってしまった。笑った後に「こんな失礼なことをしたら私はどんな酷い目にあわされるのだろう」と恐怖した。  しかし、新田が笑った理由は誰にも伝わらなかったようで、奇妙な沈黙が訪れただけで事は済んだ。 「ほら、行きますよ。アナタ」 「あ、おぅ」  スキンヘッドの男と万里子は寄り添うように奥のエレベーターへと向かって歩き出した。  ピンポン、と音が鳴りエレベーターの扉が開いた。男と万里子はエレベーターを降りた。 「こっちだよな」と言いながら男はズカズカと左へ曲がった。 「逆です」と言いながら、万里子は男の腕を引っ張って右手に進んだ。  受付で案内された三〇五号室の前には、スキンヘッドの男以上に全身ずぶ濡れの少年が立っていた。 「おい、なんだお前ッ! そこで何をしているッ!?」  男の怒鳴り声に少年は驚き、数歩退いた。 「ぼ、僕は見抜真と言います。この部屋の人の知り合い、というかクラスメイトでして」 「ウチの娘の知り合いだぁッッッ!? 適当抜かしてんじゃねぇぞッ!!」  スキンヘッドの男が真の胸ぐらを掴もうとしたが、万里子がその腕を叩いた。 「その子が救急車を呼んでくれた子でしょう? 少しは落ち着きなさい」 「この坊主が?」  スキンヘッドの男に睨まれた真は萎縮してしまう。その様子を見ていた万里子は、スキンヘッドの男を回れ右させて、エレベーターの方向に向けて突き飛ばした。 「アナタ、売店かコンビニでタオル買ってきて」 「あ、なんで?」 「良い歳した大人がいつまでもそんなびしょ濡れでいないのッ! この子も濡れてるから多めに買ってきて」 「この坊主の分も買うのか?」 「いいから、早く、買ってきて」  姫倉さとりとは比べ物にならない程の強烈な圧を感じさせる睨みと言葉を浴びると、スキンヘッドの男は急いでエレベーターの方へと走っていった。  呆然とそのやり取りを見ていた真に対して、万里子は笑いながら話しかけた。 「ごめんなさいね。私は姫倉万里子。姫倉さとりの母です。あの人は銀次。さとりの父です。いつもはちゃんとしてるのだけれど、こんな状況だから昔の悪い癖が出ちゃっててね。怖かったでしょう?」  姫倉万里子は姫倉さとりとそっくりであった。娘と違って髪型はショートヘア、背は真よりも高く、姫倉よりもさらに細身であるという違いはあるものの、高校生の娘がいるとは思えない程に若く見えた。  大学生と言われたら信じてしまうかのような美貌と、相手に有無を言わせない意思表示の出来るこのような女性のことを魔性の女と言うのだろうか、と真は思った。 「い、いえ。そういうわけでは」と真は答えた。  万里子は心配そうな顔をしながら、真の頭から足元まで一瞥した。 「それにしても本当にびしょ濡れじゃない。大丈夫?」 「だ、大丈夫です」と答えたが、その直後に真は身体を震わせながらくしゃみをした。 「まだ子供なんだから強がらなくて良いの。あの人がタオル持ってきてくれるまではこれで我慢してくれる?」  万里子はそう言いながらポーチからハンドタオルを取り出した。 「だ、大丈夫です。そんな高そうな、じゃなくて、そんな綺麗なの使えません」 「良いから使って」 「あ、あの」 「気を遣わなくて良いから、使って」 「は、はい」  姫倉さとりはこの人の娘なんだな、と改めて実感した。姫倉さとりもいずれこうなるのだろうか。いや、もうその片鱗は見えているか、と真は思った。  真はハンドタオルを受け取ると、遠慮しながら顔を拭いた。  真が顔を拭き終わるのを待ってから万里子は口を開いた。 「さ、いつまでも廊下にいても仕方ないから中に入りましょうか」と言いながら万里子は病室の扉の取っ手を握った。 「は、はい」  真は言われるがままに、万里子の後に続いて病室へと入った。  病室の中は、病院の通路とはまた違う薬品のような臭いが漂っていた。  姫倉さとりはベッドに運ばれるまでの間に、病院の方で身体を拭いたり着替えを済ませたらしく、患者衣を着ていた。  万里子はベッドの横の椅子に座ると、娘の頭をそっと撫でながら言った。 「えっと、真君、だったわよね?」 「え、あ、はい」  名字ではなく名前で呼ばれたことに驚いた真は少しだけ返事が遅れた。 「真君は娘と一緒に帰っていたの?」 「い、いえ。帰る途中に目の前で倒れるところを見ただけです」 「そう」と呟きながら、万里子は娘の頭を撫でながら真の目を見た。その眼差しは、真の心を、真の嘘を見透かしているかのようだった。 「病院から連絡を受けた時は驚いたけれど、貧血と疲労が原因だったみたい。真君もそう聞いてる?」 「はい、詳しくは家族の方にお伝えくださいと言ったのでそれ以上のことは聞いてないです」 「あらそうなの。じゃあ後でお医者様の所に行かないとね。真君のおかげで娘はすぐに病院に運んで貰えたわ。本当にありがとう」 「ぼ、僕は別に」  真の表情には心苦しさのようなモノが浮かんでいたが、万里子は彼が謙遜しているだけだと勘違いした。 「随分と謙遜するのね。そんなに畏まらなくても良いのに。まぁ、初めて会った親と同い年ぐらいの人と腹割って話せ、とは言わないけれど」  万里子はクスクスと上品に笑った。  その時、病室のドアが開いた。 「おい、タオル買ってきたぞ」  スキンヘッドの男、銀次はタオルがギュウギュウに詰まったビニール袋を掲げながらベッドの側へ歩いてきた。 「ありがとう。何枚か真君に渡してあげて」  万里子の言葉に銀次は首を傾げた。 「真君って誰よ?」  万里子は「この部屋に他に誰がいるの」と呟いた。 「あぁ、なんだ。坊主のことか。ほら、よっと」  銀次は真の濡れた頭をワシャワシャとタオルで拭きながら渡した。 「あ、ありがとうございます」  真は先に受け取っていたハンドタオルを万里子に返そうとしたが、万里子が受け取る前に手を引っ込めた。 「洗ってから返したほうが良いですよね」 「こんな時ぐらい気にしなくて良いの」  万里子は真が引っ込めた手を優しく掴むと、真の指からハンドタオルをスルリと抜き取った。 「そんなことよりも、さとりはどうなんだ?」  銀次は寝ている娘の顔を覗き込んだ。 「今は寝ているわ」  万里子は娘の手を握りながら、銀次に自分の隣の椅子に座るように促した。銀次は「よっこらせ」と言いながら椅子にドカッと座った。  銀次は濡れた頭と顔をタオルでゴシゴシと拭いてから真の方を見た。 「坊主は、さとりの何だ?」  真がどう答えようか迷っていると、ベッドの上のさとりが小さく声を漏らしてから目をゆっくりと開いた。  姫倉さとりが目覚める前のこと。  姫倉さとりは浮遊感に包まれていた。  見渡す限り、上下左右全てが黒に覆われていた。水中にいるかのように身体がクルクルと回り、どっちが上なのかも分からない。  死後の世界なのだろうか。  姫倉は刺された首筋を擦った。手には何も付かなかった。  そしてこの時初めて、自分が生まれたままの姿でいることに気が付いた。  辺り一面真っ黒な世界であることは分かっていたが、姫倉は咄嗟に両手で大事なところを隠した。 「何ココ? どうなってるの?」  しばらくの間、風に舞う綿毛のように真っ黒な空間を漂っていると、突然姫倉の身体は背中側から真っ黒な地面に叩きつけられた。バシャッと水飛沫が上がった。 「痛ッッッ」  足首ぐらいの高さまで水が溜まっている真っ黒な空間に落下した。この世界の上下をやっと認識することが出来た。  足元に溜まっている水は黒く濁っており、排水口を彷彿とさせる嫌な臭いを放っていた。 「何なのコレ」  姫倉は強打した背中を擦りながら立ち上がった。そして、口の中に入った黒い水を吐き出した。  身体に悪そうな臭いを放つ濁った水から早く上がりたかったが、見渡す限り真っ黒な世界が続いていた。  シュロロロロ。  後ろの方から妙な音が聞こえた。  シュロロロロ。  姫倉が振り返ると、小学校高学年ぐらいの背丈の、白いワンピースを着た少女が笑いながら黒い空間に浮かんでいた。  見た目は普通の少女なのだが、黄色く丸い瞳を持つその少女は、この世のモノとは思えない雰囲気を纏っていた。 「誰、ですか?」  シュロロロロ。  少女の口元から乾いた音が聞こえる。しかし、人間の声帯から出る音とは何かが違うような気がしてならなかった。 「ここは何処ですか?」  シュロロロロ。  言葉が通じているのかも分からなかった。ただ、少女は妙な音を立てながら笑っているだけで、怒っているようには見えなかった。 「早く元いた世界に帰りたいです」  シュロロロロ。 「神様、ですか?」  少女はどういうわけか、その言葉を聞くとケラケラと空中を笑い転げた。 「あ、あの」  突然のことだった。  少女の顔が鼻先が触れる程の距離にまで迫っていた。森の中にいるような植物と土の臭いに混じって、何かが発酵したようなツンとした刺激臭がした。 「ヒッ」  少女の黄色く丸い目が、姫倉の瞳の奥を覗き込んでいた。吸い込まれるような、身体の中から魂のような何かが引きずり出されるような、理屈は分からないが本能的にマズイと分かる感覚に姫倉は襲われた。  だが、姫倉の身体は指一本すら動かない。  シュロロロロ。  不気味な音を鳴らしながら少女は笑った。そして、姫倉の胸元をドンと突き飛ばした。  少女の華奢な身体からは想像出来ない程の力強さで押されたために、姫倉は後ろに倒れ込んだ。  しかし、身体は地面にぶつかることはなく、何処までも何処までも落下していった。  姫倉の意識は闇の中に落ちていく最中に、段々と薄れていった。 「んん」  真っ暗だった視界に光が混じる。次第に視界は鮮明になり、知らない天井を見上げていた。自分はどうやら何処かに寝かされているようだった。  手を動かそうとすると、誰かが自分の手を握っていることに気が付いた。  その手の感触から相手が誰なのか予想がついた。 「ママ?」 「さとりッ!」  万里子の頬を伝った涙が、ベッドの上にポタリと落ちた。 「ママッ!」  さとりは身体を起こすと母に抱き着いた。万里子は娘の身体を優しく包み込むように抱き締めた。 「ママ、私ね。刃物を持った」  そこまで言いかけたさとりは、慌てて自分の首元を擦った。しかし、血がつくわけでもなければ、そこに何か傷があるわけでもなかった。次に腰の辺りを触ってみたが、こちらも怪我をした様子は無かった。 「刃物? 何のこと?」 「あ、あれ? 私、なんで?」  さとりはそこで初めて、ベッドの横に父とびしょ濡れの真がいることに気が付いた。 「パパと、見抜君?」 「心配したんだぞ、さとり」  銀次は頬を緩ませながら大きなため息を吐いた。 「パパ、じゃなくて、お、父さんも来てくれたの?」 「当たり前だろ。娘が倒れたって連絡があったんだから」  さとりは父の横で居心地の悪そうな顔をしたままの真を見た。さとりの視線に気が付いた真は苦笑いをした。 「ママ、じゃなくて、お母さん。ちょっと見抜君と二人で話したいことがあるんだけど良い?」  万里子は娘と真の顔を交互に見た後に、口元を隠しながら笑った。 「そう。じゃあ少し席を外すわね」  万里子が立ち上がると、銀次は腕を組んでふんぞり返った。 「何で席を外す必要があるんだッ!? 俺は父親だぞッ! 父親の前で話せないような話があるってんなら俺は許さな痛痛痛ッッッ!!」  真の顔を覗き込むようにしながら睨みつけていた銀次の耳を、万里子は強引に引っ張り上げた。 「二人にさせてあげましょう。ほら、早く外行って」 「お、おいッッッ!! 良いのかあんな坊主と二人にしてッッッ!!」 「彼なら大丈夫よ」 「大丈夫なもんか。可愛いさとりを前にしたらあんな坊主、何をしでかすか分かったもんじゃ痛痛痛ッッッ!!」 「早く、外、出て」  万里子に引きずられるようにして、銀次も部屋の外へと出ていった。  部屋が静まり返った。  姫倉は布団の端を弄りながら真に話しかけた。 「ねぇ、見抜君。どういうこと? 何があったの? 私、確かに刺されたはずなんだけど」  その言葉を聞いた真は急いで床に正座をすると、顔を床に打ち付ける勢いで土下座をした。 「本当にごめんッッッ!!」  ゴンッ、と鈍い音がした。 「な、何が? 顔上げて良いから最初から説明して」  真がゆっくりと上げた顔を見て、さとりはギョッとした。真の鼻から顎の先まで真紅の線が出来ていた。 「み、見抜君、鼻血が出てる」 「え?」  真はそっと自分の顔に手を当てた。その手にベッタリと血がついた。 「ヤバいヤバい」  真は慌ててズボンのポケットからズブ濡れのハンカチを取り出して顔を拭いた。  姫倉は床にも血がついていることに気が付いた。 「土下座した時に顔をぶつけたの?」 「そう、みたい」  土下座をしたことがなかった真は、距離感が掴めずに顔を床にぶつけていたのだった。 「そこにティッシュ無かった? 使っていいよ。病院の備品でしょ? 多分」 「ごめん、ちょっと貰うね」  真はティッシュを何枚か取ると鼻に詰めた。そして床の血を拭き取った。  真が床の血を拭き終わってから姫倉は口を開いた。 「脱線しちゃったけど、何があったのか説明して」 「あぁ、ごめんごめん」  真は目を閉じて何度か深呼吸をしてから、姫倉の目を見て言った。 「姫倉さんを刺したのは、僕なんだ」  時は遡り、十八時五十五分。  バケツをひっくり返したかのような大雨が降る中を、合羽を着ないまま全力で自転車のペダルを踏んでいる真の姿があった。  打ち付ける雨に頭のてっぺんから足の先までズブ濡れになり、水を多分に吸ったリュックは重さを増していた。かれこれ三十分走り続けた真の体力はとっくに尽きていた。  しかし、真はペダルを踏む足を止めない。目の前に大きな水溜まりがあっても、真は避ける手間すら惜しんで突っ込み大きな水飛沫をあげた。  目や口に雨が入ろうとも拭うことはせず、真はただひたすらにペダルを踏んだ。  ペダルを踏みながら真はずっと考えていた。 「何故、姫倉さとりは一人で帰ることを選んだのだろうか?」  助かりたくなかったのか。いや、そんなはずはない。  あの日見せた姫倉の涙は、たとえ真の能力がなかったとしても真実であると確信出来る程に魂に訴えかけるものだった。  様々な偶然が重なって一人で帰宅せざるを得なかったのか。そんなことも決してないだろう。  ハッキリと意思表示をする姫倉が周りに流されるとは考えにくい。仮に緊急の用事が出来たとしても、一言連絡するぐらいの礼節は弁えている。 「待てよ」  彼女は外靴をリュックの中に忍ばせていた。帰りのホームルームの後は一緒に行動していたのだから、それよりも前には一人で帰ることを決めていたはずである。 「だいぶ前から決めていたとしたら?」  真の頭に一つの答えが思い浮かんだ。その答えは、真が分からなかった謎を解き明かし、今の状態をも説明出来るモノだった。 「今まで姫倉さんが経験する未来で僕が隣にいなかったのは、僕の身に何かがあったんじゃなくて、姫倉さんが意図的に一人になる状況を作っていたとしたら」  もしそうであるならば、一人で帰ることに何か大きな意味があることになる。 「きっと、何か言ってない事があるんだ」  真はペダルをさらに強く踏んだ。自転車はさらに勢いを増した。  真は大通りから路地に入った。道が狭くなっても自転車のスピードは落とさない。  誰もいないてっぺん公園の横を通り過ぎた時に、真は数十メートル先を歩く男の姿と、そのさらに奥に姫倉と思われる女性が歩いているのが見えた。  真は姫倉の後ろを歩く男が犯人であると感じ取った。そこに理屈は無い。直感が真に語りかけていた。  最も確実に姫倉を助けるにはどうしたら良いのだろうか。  姫倉に後ろの男が怪しいと伝えてみる。悪くはないが良くもない。姫倉がその言葉を聞いて走り出したとしたら、犯人も当然走るだろう。  今まで経験した未来の中で姫倉が走って逃げ切れていないということは、犯人は足が速い可能性が高い。走って逃げるという行為は、何の策もなく選んで良い選択肢ではない。  自分が犯人に立ち向かう。それは父との話で決着がついている。大した時間稼ぎにもならないだろう。  この自転車で犯人に突っ込む。多少はマシかもしれないが、良くはない。避けられる可能性もあるし、前を歩く男が犯人ではない可能性もあるし、犯人が単独犯とは限らないからだ。 「どうするどうするどうするどうする」  真は頭の中で叫んだ。数秒後には男に追いついてしまう。 『お前が先に殺せば良い』  突然父の言葉が脳裏を過った。  何故今思い出したのだろうか?  だが、今思い出したことに何かとても大きな意味があるような気がしてならなかった。    その時、頭の中にあったパズルのピースが次から次へとハマっていく音がした。  何の確証も無かったが、真は完成したパズルに全てを賭けることにした。  真は怪しい男を追い抜いた後に、自転車から飛び降りた。運転手のいなくなった自転車はフラフラと明後日の方向に進み、ゴミ捨て場のネットに突っ込んだ。  真は飛び降りる時に抜いておいた自転車の鍵を指で摘んで姫倉に駆け寄った。  降り続ける雨が真の発した音と気配を消していた。  グニュッ。  自転車の鍵を姫倉の首に刺した。  グニニッ。  続けざまに腰の辺りにも鍵を刺した。服で分厚くなっていると思った真は、首元に鍵を刺した時よりも強く刺した。  姫倉はうめき声をあげながらうつ伏せに倒れ、バシャンと大きな水飛沫を上げた。  倒れた拍子に折り畳み傘は手元から離れて近くの電柱とフェンスの隙間に挟まった。 「刺された後に温かい液体の流れる感触」  真は彼女の言葉を思い出し、リュックから水筒を取り出すと温かいお茶を首元と腰の辺りにかけた。  降り続ける雨が傘を失した姫倉の身体に打ち続けられたこともあり、温かい液体は上からかけられたものではなく自分の身体から流れ出たものだと姫倉は錯覚した。 「あああああああああああああああッッッ!! どうしてッッッ!! どうしてッッッ!! わぁあああああああッッッ!!」  真は後ろを振り返った。  そこには、手に刃物を持ったまま明らかに動揺している男の姿があった。  男と目が合った。  男の目は光も熱も持っていない死人のようだった。 「失せろッッッ! 俺が殺したッッッ!」  殺そうとしていたターゲットが突然現れた何者かに刺されて倒れ、正体不明の液体をかけられている。その光景を見た刃物を持った男は、何も言わずに刃物を何処かに隠し、踵を返して走り去って行った。  真は怪しい男を睨み続けていたが、やがてその背中が見えなくなった。 「ハァ、ハハハ、ハハハハ」  緊張の糸が切れたからだろうか。足がブルブルと震え始めたと思ったら力が抜けて膝から崩れ落ちた。正体不明の震えと笑いが真を襲った。  歯をガチガチと鳴らしながら、何かを拾うことすら出来ない程に震えている腕で姫倉の肩を優しく叩いた。 「ひ、姫倉さん。大丈夫?」  しかし、ピクリとも反応がない。 「姫倉さん、姫倉さん」  何度も肩を叩いたが、まるで人形のようにピクリともしない。 「ちょ、姫倉さんッ! 姫倉さん起きてッ!」  本当に刃物で刺されたと思い込んだ姫倉は恐怖から気を失っていた。  だが、真には気を失っているだけなのか身体に異常をきたしているのかが分からない。 「ええと、ええと」  それが正しい選択だったのかは分からないが、真は救急車を呼んだ。  救急車が来るまでの間、真は姫倉が持っていた傘を拾ってきて、自分が濡れることを厭わずに姫倉のために傘をさし続けた。 「それから、到着した救急隊員の人達に姫倉さんのことをお願いして、僕は自転車でこの病院に来たって感じ」 「ふぅん」  姫倉は大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐ききった。 「色々と聞きたいのだけれど」 「どうぞ」 「私の後ろに誰か歩いてたの?」 「うん、刃物持った男が歩いてたよ」  姫倉は思わず息を呑んだが、ある程度予測はしていたため、そのまま話を続ける。 「てっぺん公園に人影がいたような気はしてたんだけど、まさか」 「そうなの? 最初から姫倉さんを狙っていたのだとしたら、ありえなくは無いかもね」 「なんで私なんだろう?」 「そればっかりは犯人が捕まった後に吐いてくれないと分からないね」 「それもそうだね」  姫倉は一度深呼吸をした。 「話変わるけど、なんで見抜君は自転車の鍵で私のことを刺したの?」 「それは」  真は少しだけ考えてから口を開いた。 「未来を再現しようとしたから、かな。姫倉さんが経験した未来って、後ろから何者かにナニカで刺されたって内容でしょ? もちろん今こうして落ち着いて考えてるから思い付いたのだけれど、僕達は勝手に刃物だと勘違いしてただけなんじゃないかと思って」 「刃物だと勘違い?」 「僕が水筒のお茶をかけたのは、姫倉さんが言ってた『温かい液体が流れる感触』を再現したかったから。例えば、硬いナニカで刺されて、温かい液体が流れる感触があったとしたら、大体の人は刃物で刺されて出血したんだと思うでしょ?」 「思うんじゃないかな」 「だから、刃物以外の安全な物で『ナニカで首と腰を刺される』そして『温かい液体が流れる感触』を再現すれば、姫倉さんに怪我を負わせずに経験した未来を再現出来るでしょ?」 「私が経験した未来を、安全な形で現実にするってこと?」 「そう。まぁ全部後づけだけどね。父さんが言った『お前が先に殺せば良い』って言う言葉が何を言いたかったのかは今も分からないけど、姫倉さんが怪我をしない形で未来を再現すれば良いってことなのかなぁって思ってる」 「見抜君のお父さんは何者なの?」 「何者って、別に普通だよ」 「私の能力のことは話したの?」 「ハッキリとは言ってないよ。ただ、通り魔事件のことを気にしてる人がいるって話をしただけ」 「ふぅん」  姫倉は真の顔をジッと見た。そして窓の外を確認した。吹き付ける雨風がガタガタと窓を揺らしていた。 「そういえば、救急車を呼んだ理由は、なんて説明したの?」  真は頭を掻きながら乾いた笑いをした。 「何て言おうか迷ったけど、目の前でいきなり倒れたって答えた」  正直に全てを話せば話がややこしくなるだろうと思い、良心の呵責に苛まれはしたものの、真は嘘をついたのだった。 「ふぅん。それで私はどういう診断をされたの?」 「救急車に乗せられて時点では疲労と軽い貧血じゃないのか? って話だったけど、詳しくは知らない」 「ふぅん、そう」  姫倉は窓の外を見た。暗くて何も見えなかったが、吹き付ける雨風の強さは感じ取れた。 「ねぇ、姫倉さん」 「何?」 「何で一人で帰ろうとしたの?」  姫倉の眉がピクリと動いた。 「知ってどうするの?」 「知ってどうするわけじゃないけど、何でそんなことを、何でわざわざ危ない目に遭おうとしたのか分からなくて」  姫倉は小さく息を吐いてから言った。 「捕まるから」 「捕まるって、犯人が?」 「そう。見抜君には言わなかったけど、私が経験した未来の中で、犯人が捕まってるニュースが流れてることがあったから」 「な、なんでそんな大事なことを教えてくれなかったのさ」  真は思わず大きな声を出した。 「私が一人で襲われた時に犯人が捕まっていた。ということは、見抜君が一緒にいた場合、犯人が捕まらないかもしれないでしょ? 見抜君がさっき言ってた未来の再現を、私も違う形でしようとしていたの」  淡々と話す姫倉に対して、真は信じられないという顔をした。 「な、え?」 「何を疑問に思うところがあるの? 大事でしょ。犯人が捕まるかどうかは」 「そりゃ大事だけど。だからといって、姫倉さんが自ら危ない目に遭う必要なんかないよ」 「どうして? 私が最後の犠牲者になれば全ては丸く収まる。そうでしょう? 見抜君と一緒に帰って、私と見抜君が襲われて犯人が逃走したとしたら? それって最悪の未来じゃない? それと比べたら、私一人が犠牲になることで犯人が捕まる方に賭けるべきでしょ?」  理屈は分からなくもない。  真が未来を安全な形で再現することで姫倉を救おうと考えたのと同じように、姫倉は自分一人で襲われることで犯人が捕まる未来を獲得しようとしたのだ。  これが本当に正しい選択なのだろうか。  自分だったらどうするのだろうか。  分からない。  分からないが、自分を犠牲に誰かを助けようという姫倉の魂胆を、真はどうしても受け入れることが出来なかった。  真は無意識に爪が喰い込む程に拳を握りしめていた。 「だったら、助かりたいって泣いてたのは何だって言うんだッッッ!」  真の出した大きな声に驚いた姫倉は、全身がビクッと震え、瞳が大きく開いた。 「助かりたいってッ、どうすれば良いかって僕に聞いたじゃないかッ!? 姫倉さんは助かりたかったんじゃないのッ!? あの日の涙は僕には本物に見えたよッ! 姫倉さんからしたら、僕が頼りなかったから諦めるような選択をしたのかもしれないけどッ、それならそう言って欲しかったッ! もっと色んな方法を考えるべきだったッ! 自己犠牲にそれっぽい理由をつけて、自ら危ない目に遭おうとするだなんておかしいよッ!」  真は一呼吸も挟まずに一気に叫んだ。そして搾り出すように最後の言葉を言った。 「姫倉さんは大人だから、そういう賢い選択が出来るのかもしれないけど。もっと自分の好きなように生きるべきだよ。もっと周りのことを頼ってよ」 「だ、だって。私が何とかしなくちゃって。誰も巻き込みたくなかったから。私が何とかしなくちゃって思ったから」  姫倉は言葉に詰まって嗚咽を漏らした。  布団の端を握る姫倉の手にポタポタと水滴が落ちた。姫倉は自分の手が濡れたことにより、自分が泣いていることを知った。  姫倉の涙を見た真はハッとした。 「ご、ごめん。ちょっと言い過ぎたかも」  姫倉は手の甲で頬を拭った。それだけでは涙を拭いきれず、近くのティッシュを手に取った。 「姫倉さんの言う『巻き込みたくない』ってのは、自分一人でどうにかしようってことでしょ? 気持ちは分かるけどさ、一人じゃどうしようもないことってきっとあると思うんだ。そういう時に、自分を犠牲にするんじゃなくて、誰かを頼って欲しいなって」  姫倉はティッシュで涙を拭き取ると、涙で少し腫れた目をしながらとびきりの笑顔で言った。 「じゃあ、次からは見抜君のことを頼りにしてるからね」  その笑顔と言葉に真はドキリとした。 「え、あ、うん」 「なんで急に顔赤くなってるの?」  その言葉に、少し赤くなっていた真の顔は一気に真っ赤になった。 「いや、別に」 「変なの」  真は恥ずかしさを誤魔化すように、姫倉は真につられて笑った。  二人の笑いが一段落した頃、病室のドアがノックされた。 「そろそろ良いかしら?」 「うん、良いよ」  病室に万里子と不機嫌そうな銀次が入ってきた。  真はベッドから離れながら時計を確認した。思っていたよりも時間が経っていた。 「すみません、時間も時間なので僕はそろそろ帰ります」 「あら、そうなの? 送っていかなくて大丈夫?」 「はい、合羽あるので」 「それにしては、随分とびしょ濡れだけれど」  痛い所を突かれた真は言葉に詰まる。 「私はこの後どうなるの? 家に帰るの?」 「さっき先生と話して来たのだけれど、さとりは念のため一晩入院ですって」  さとりの出した助け舟が話題を変えた。 「ふぅん。そっか」 「明日は学校休めば良いだろ。無理して行くことも無い」 「うん。そうだねパパ、じゃなくてお父さん」 「さとり。何でパパじゃなくてお父さんと呼び直すんだ。いつものようにパパと呼んでくれよ」  銀次の言葉にさとりの顔が少し赤くなった。 「ホント、デリカシーのない人」  万里子はため息をついた。銀次は二人の反応に違和感を覚え、一つの結論に辿り着いた。 「まさか坊主がいるからか? おい坊主、お前さとりと二人きりで変なことしてないよなぁッ? ん? よく見たらさとりの目が赤いぞ。さてはお前さとりを泣かせたなぁッッッ!?」 「ち、違います。誤解です」  厳密には姫倉は真の言葉で涙を流したのだが、正直に話せば銀次の拳が飛んでくるのが目に浮かんだので、真は嘘をついた。 「嘘ついても分かんだからなぁッッッ! 俺が本気出したら坊主なんてギッタンギッタンのメッ痛痛痛ッッッ!」  万里子が銀次の耳を引っ張って強引に話を切った。 「ごめんなさいね、真君」 「いえ、大丈夫です」 「この人は私が抑えておくから、帰るなら早く帰りなさい」 「ありがとうございます。それではこの辺で」と言い、タオルのお礼をもう一度伝えてから真は病室を後にした。  真のいなくなった病室に沈黙が訪れた。 「なぁ、さとり。あの坊主とどういう関係なんだ?」 「クラスメイトだけど」 「それだけか?」 「それだけ」 「本当か?」 「本当」  一連のやり取りを見ていた万里子は眉を震わせていた。 「アナタはさっきから真君のことをネチネチネチネチとなんですか。彼のおかげですぐに病院に運んでもらえたことを忘れたの?」 「忘れたわけじゃねぇけど、可愛い娘に変な虫がつかないようにするのが父親の役目だろう?」 「真君は変な虫じゃありません」 「何故そう言い切れるんだ?」 「真面目で良い子だったじゃない」 「ケッ、ああいう奴ほどエグいことを考えてんだよ」  銀次は不貞腐れるように腕を組み明後日の方向を睨んだ。 「それは偏見です」 「偏見じゃねぇ。コレは俺の直感だ」 「それは間違いです」 「随分と坊主の味方をするじゃねぇか」 「だって、真君とアナタの目、あまりにも似ていたものだから」 「あの坊主と俺の目が似ていたぁ?」 「えぇ。決して消えない熱を持った目。私の大好きな目」  銀次はまんざら悪くなかったのか、頭をポリポリと掻いた。 「娘の前で惚気けるのはやめて」  両親の会話に耐えきれなくなったさとりは口を挟んだ。 「あら? さとりも彼の目に惹かれたんじゃないの?」 「だぁかぁらぁ、そういうのじゃないんだってば」 「フフフ、まぁそういうことにしておきましょうか」 「俺は認めねぇぞ。あんなヒヨヒヨのモヤシ野郎」  両親の勘違いに腹が立ったが、この場で言い争いをする気にはならず、その思いを飲み込んだ。 「まぁ、仮に好きな人が出来たとしても、パパの許可を貰う気は無いけどね」 「さとり、冗談だよな?」 「どっちだと思う?」 「さとりぃいいッ!」  娘の言葉に、万里子は笑い、銀次は肩を落とした。  次の日、姫倉は体調不良を理由に欠席をした。  しかし、教室の中は姫倉の欠席よりも他の話題で盛り上がっていた。 「通り魔捕まったんだってね」 「職業年齢不詳の男だってさ」 「ヤバイ奴じゃん」 「無敵の人か」 「現行犯逮捕なんでしょ? もしかしたら今月も誰かが被害に遭ってたかもしれないってこと?」 「怖ぁ」  皆が好き勝手に喋っているのを、真は会話に参加せず、真っ白なノートにもう一冊のノートに書かれていることをひたすら書き写していた。  昨日の夜は、家に帰ってからも大変だった。  帰りが遅くなったこと、全身ズブ濡れであったこと、そして何より、教科書類が水没してダメになっていたこと。ノートなら新しいノートを買って誰かのを写せば良いかもしれないが、教科書の注文は値段も手間もかかるため、真は母の逆鱗に触れることとなった。  一つ上の幼馴染みが一年生の時に同じ教科書を使っていたということもあり、それらの教科書を譲り受ける形で事なきを得たが、水没したノートの復元のために、誰かにノートを借りて写させて貰わないといけなかった。  最初は牧野のノートを借りたのだが、彼のノートはあまりにも汚く、写す作業よりも解読作業の方に時間がかかってしまいそうだった。  牧野にノートを返してから誰に借りようか悩んでいた時に、真は野々宮の「困った時はお互い様」の言葉を思い出した。 「というわけで、ノートを貸して欲しいんだけど良い?」 「別にそんな大層な理由が無くても、言ってくれれば貸してあげるのに。見抜君は律儀だねぇ」とノートを手渡しながら野々宮は言った。  真はノートを受け取りながら「いや、でもまぁホラ。ノートってあんまり人に見せたくない人もいるから」と返した。 「でも、見抜君は私が頼んだら見せてくれるよね」 「それはまぁ、別に。僕はノートを見られてもそんなに嫌じゃないし」 「それは私も一緒だよ。授業の時以外は見抜君がノート持ってて良いからね。というか、返すの明日以降でも良いから」  真はもう一度お礼を言ってから自分の席に戻り、野々宮のノートを開いた。  野々宮のノートは沢山の色が使われていて目が疲れたが、要点やポイント等が参考書のように綺麗に纏まっていた。 「スゴい見やすいな。たまにノート作りに時間かけている人がいるけどこういうことなのかな?」  こうして、真は一日をノートを写す作業に費やしたのだった。 「野々宮さん、ノートありがとう」  帰りのホームルームが終わった後、真はノート数冊を持って野々宮あすかの席を訪れた。 「フフン、どういたしまして。もう終わったの? まだなら無理して返さなくて良いよ」 「写し終わったから。野々宮さんのノート見やすいね」  真の言葉に野々宮の表情が一段と明るくなった。 「本当に!? 良かったぁ」 「それじゃあ」と言ってその場を去ろうとした真の腕を野々宮は掴んだ。 「ねぇ、昨日は姫倉さんに追いつけたの?」 「え、あ、うん」  野々宮はニヤァと嫌な予感のする笑いをした。 「で、どうだった?」 「どうだった、って何?」 「もう、トボケっちゃってぇ。あんな雨の中を合羽も着ないで急いで帰ったってことは、大好きな姫倉さんとチョメチョメなことをしたんじゃないの?」  どういう理屈か分からないが、野々宮にとってはそういうことらしい。 「してないよ」 「あ、まだAだった?」 「そういう事言ってたって姫倉さんに言っておこうかなぁ」  その言葉に野々宮は冷や汗をかき、手をあたふたとさせた。 「いやいやいや、それはナシだよ見抜君。やだなぁ、冗談だよぉ」  何かを思いついたのか、野々宮の口元が弧を描いた。 「ふと思ったけど、見抜君の口から姫倉さんに言えるの? 『姫倉さんとはまだAだった?』なんてことをさ」 「それは」  言えない。言えないこともないけれど、その後ゴミを見るかのような目で見られるに決まっている。 「どうだろうね」 「なぁんだ。見抜君だって言えない癖にぃ」  野々宮が肘で真の脇腹を小突いた。 「あんまり酷かったら言うよ」 「まぁまぁ見抜君。私と見抜君の仲じゃないですか。ここは一つ穏便に済ませましょうよ」 「僕と野々宮さんの仲? クラスメイトってこと?」  真はトボケてみせた。野々宮は真のボケに乗っかるように、手の甲で真の胸をペチッと叩いた。 「ちょいちょいちょーい。間違ってはないけどさぁ。もうちょっとこう、何と言うかなぁ。もうちょっと仲良しだと思ってたんだけどなぁ」 「そうかなぁ」 「そうだよッ!」  野々宮がふと時計を見ると、思っていたより時間が過ぎていたのだろうか。大きく口を開けた。 「ごめん見抜君。部活遅れちゃう」 「あぁこっちこそごめん。部活頑張ってね」 「りょーかーい」  野々宮はバタバタと走って廊下へ出ていった。  その日の夜。  真が部屋で漫画を読んでいると携帯電話が鳴り出した。慌てて確認をすると、姫倉からの電話だった。 『もしもし、今大丈夫?』 「うん。大丈夫だよ。体調はどうなの?」 『問題ないよ。明日は普通に学校行くから』 「そうなんだ。良かった」  少しだけ沈黙が訪れた。 『見抜君はニュース、見た?』 「ニュースって、通り魔の犯人が捕まったやつ?」 『そう』  朝の教室がその話題で盛り上がっていたように、通り魔の犯人は六月七日の夜に現行犯逮捕されていた。  警察の発表によれば、パトロール中に不審な男を見つけた警察官が職務質問をしていたところ、刃物と血痕のついたハンカチの所持を発見したために現行犯逮捕に踏み切ったということだった。 「とりあえず捕まって一安心、かな。黙秘を続けてるみたいだから今後どうなるのか良くわからないけど」 『これで終わったと思う?』  姫倉の言葉は何処か不安そうだった。 「どういうこと? もしかして何か別の未来を経験したの?」 『いや、昨日から一度も未来を経験してない』 「そうなんだ。じゃあ何かあったの?」 『何かあったわけじゃないけど。何となく、嫌な予感がするの』 「嫌な予感?」 『説明出来ないけど、何か嫌な予感』 「それは」  真は色々な言葉が頭を過ったが、その中で一番前向きな言葉を口にした。 「とりあえずは目の前に迫った文化祭のことを考えない? 高校生最初の文化祭。来週末にはあるんだからさ」 『そっか。そうだね。文化祭、やるんだもんね』  姫倉は噛みしめるように呟いた。
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