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「どうして私の名前を?」
「刻印されているじゃないですか」
口をついて出た疑問に、男は作り笑いを崩さなかった。けれど、かすかに顰めた左眉には悲しみのような怒りのようなものが感じ取れ、何と返していいのかわからなくなる。
この店に似つかわしくない、ファストファッションに身を包んだ私を疎ましく思っているのだろうか。
「大切なものなのに、把握されていないのですか?」
「えっと……」
「ああ、すみません。大切なのはキーケースじゃなくて、鍵でしたか」
「いえ、そういうワケではないんですけど」
”大切なもの”と言った自分自身に首を傾げる。
艶やかに光る本革のキーケースには、Y.YOTSUJIと刻印されている。私のものであることは間違いない。けれど、改めて考えると、このキーケースをどこで手に入れたのか、いつから使っているのかが思い出せない。
こんな高そうなものを自分が買うとは思えないが、恋人もいない私が誰かからプレゼントされたとは考えにくい。
大切なものだという感覚はあるのに、どうして私は覚えていないのだろう?
「四辻さん」
名前を呼ばれ、いつのまにか俯いていた私は顔を上げた。
「天気予報は晴れのち曇りだったと記憶していますが、雨が降ってきたようです。きっと、通り雨でしょう。お詫びにお茶を淹れますので、ゆっくりして行かれませんか?」
「え?」
促されて窓を見ると、雨粒がガラスを叩いていた。
驚きに眼を瞬かせていると、彼は店の奥にあるテーブルセットを指し示した。
「お急ぎですか?」
「いえ……」
先月、私は派遣切りにあった。運よく新しい仕事が見つかり、来週からは正社員になる予定だが、今日の時点ではまだ無職だ。お金はないが時間はある。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
たまにはこんな珍しい経験も悪くないと、流されるままに頷いた。
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