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ここは、どこだろう。
己が誰かはわかっている。どんなに体が衰えても、記憶だけは意地と根性で守り切ったのだ。
宇都美太蔵。それが僕の名前だ。
体が軽く感じる。呼吸も苦しくない。視界は――わからない。何せ目の前は一面真っ白だ。こんな景色今まで見たことないし、遂に目が狂っていたとしてもおかしくない。
ふと、自分が今立っている場所を見る。
白い床に、足が2本付いている。これは自分の足だ。けれど、老人の痩せ細った足ではない。枯れ枝ではなく大樹の幹のような太い足。まるで、生きるために奮闘して辺りを駆け回った頃のような。
「ああ、来ましたね」
突然後ろから声がした。高いとも低いとも言い難い、なんとも奇妙な声だ。
声の聞こえた方を振り向くと、そこには人のようなものがいた。
にんまり、と音がつきそうなほど目と口を弧に歪めた、肌も服も真っ白な人物だ。坊主なのかハゲなのかわからないが、髪は見えない。髪も白くてどうかしてしまっているだけなのかもしれないが、今は便箋状ハゲ男と呼ばせてもらおう。
ハゲ男は真っ白な手で黒のバインダーを開いて、ふむふむと意味深に頷いてから再びこちらを向いて奇妙な笑顔を見せてきた。
「申し遅れました。あたくし、天使と申します」
「てんし? 天使って、子供じゃあないのかい?」
僕がそう言うと、ハゲ男はにっこりとさらに笑みを深めながら弧に歪んだ口を開いた。
「違いますねぇ。ついでに言うと、可愛げのある女性でもありませんよ。『天使』というのはみなさんが想像している通り役職の名前ですが、実際羽も輪っかもありません。こーんな胡散臭い笑みを浮かべている男ばかりのムサイ職場です」
「胡散臭い自覚はあったのか」
「悪徳セールスマンにいそうな顔だとよく言われます」
「ああ」
漫画でデフォルメされた悪徳セールスマンの顔が大きく描かれたポスターを街中で見かけたことがあったが、確かにこんな顔だった。
「天使の輪っかは仏様の後光に見立てたものを昔の人が勝手に描いただけなんですよ。よく考えても見てください。こんな胡散臭い顔をした奴が後光を背負っていたら気味が悪いでしょう」
「自分で言うのかい?」
「言いますとも。他に言ってくれる人がいませんから」
そりゃそうだ。現世で生きる人たちには、本来の天使の姿なんて知る由もない。
というか。
「そうだ、僕は死んだのか?」
「ええ、なくなりましたよ」
大事な質問をしたはずなのに、あっさりと淀みなく返されてしまって少し拍子抜けした。
そうか、僕は死んだのか。
そして、天使がいる場所に来た。ならばここは。
「ここは、天国?」
「惜しいですねぇ。ここは天国に入るためのゲートです。ここで、あなたは死にましたよーって教えてから天国に入っていただくんですよ。自分の死が受け入れられなくて暴れ出す人もいますからねぇ。天国内で暴れられちゃ困りますから。天国は万人の幸せの象徴。それを壊されるわけにはいかないんですよ」
「な、なるほど」
ハゲ男の言葉から伝わる圧に、思わずのけぞってしまう。
ふう、とハゲ男が一息ついていつもの胡散臭い笑みに戻ってから、手に持っていた黒いバインダーを開く。それを一瞥してからじ、っとこちらを見た。その瞬間笑みは消え、自分の全てを見透かされているような気がして、蛇に睨まれたカエルのように体がすくんでしまった。
「どうやら、あなたは幸せな人生を送ってきたようですねぇ」
しかしすぐに、またニンマリとした笑みを取り戻し、僕に話しかけた。
先ほどの、感情がごっそり抜けたような顔はなんだったのだろう。恐ろしくて聞くこともできなくて、必死に質問の答えを探す。僕の人生が、幸せな人生だったか? その答えは。
「いいや」
そう答えると、彼は大袈裟に驚いたような顔をした。
「おや、そうなのですか? 仕事は一流企業に就職して大きなミスなく純緒に昇進してそのまま定年退社、二十五歳で結婚して二人の子供と四人の孫と二人のひ孫に恵まれたでしょう。夫婦仲、家族仲も決して悪くなかった。なのになぜ、幸せではないと?」
彼は、本当に訳がわからないといった表情で僕のことを見てきた。どうやら、あのバインダーには僕の過去が書いてあるらしく、つらつらと僕の半生を述べる彼の口調には淀みがなかった。
「たしかにね。仕事もそれなりにうまく行っていて、妻にも子供にも恵まれたよ」
「世間一般ではそれを幸せと呼ぶんですよ」
「でも、本当に愛する人と共には在れなかった。それを君は幸せと呼べるかい?」
僕には、学生時代からの初恋の人がいた。彼女はとても美しく、強かな女性だった。校内に猪が侵入してきた時に、素手で立ち向かって勝利した後猪鍋を披露してくれたのもとても良い思い出だ。味の感想は何とも言えなかったが。そんな彼女と、僕は卒業後に交際を始めた。しかし、僕が就職して一年後。結婚を間近に控えていた時。彼女は病に伏せ、そのまま亡くなってしまった。
その後僕は親から勧められた見合いで出会った良家の娘と結婚した。一人っ子だった僕は家の名を残すため、結婚するしかなかったのだ。
今でも忘れられない、彼女との別れの時。
さようなら、という彼女に僕はこの手を決して離さないからと誓ったはずなのに。
ああ、彼女に会いたい。
「彼女は、天国にいるのか?」
「ええ、いますよ。あなたの奥様も」
妻は決して悪い人ではなかった、むしろ、女性として素晴らしい人だと思う。慎ましく、淑やかで、無駄な口は決して開かない女性だった。たとえ僕達の間に愛がなくても、人生を共に生きてきたパートナーとしての絆は強いものだったと思う。
しかし、それでも。
僕は彼女に会いたい。愛したまま喪ってしまった彼女に。
「彼女はどこに?」
「……扉の先に、あなたを待つ人がいますよ」
そう言って彼が差した先には、のっぺりとした白い壁にうっすらと白い扉が見えた。
「ありがとう、天使くん!」
「あーあ」
かぱり、と何かが外れるような音がしたような気がしたが、僕には何の音なのかわからなかった。
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