ZUTTO

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   ピースとは、赤ん坊の頃からずっと一緒に暮らしてきた。  母が病院でわたしを出産する数日前、隣の家の老夫婦の飼っていたゴールデン・レトリバーが、ピースを出産したのだ。 「私たちでは、老い先短いので……」  隣人から子犬の譲り受けを持ちかけられた父は、二つ返事で快諾した。もともと犬が好きで、いつかは自分も飼いたいと思っていたらしい。  わたしという存在がありながら、子犬などにうつつを抜かすなんて、と物心がついたわたしはちょっぴり父に文句を言いたい気持ちもあった。けれど、いつもわたしの隣に寝転んでいる真っ白でふわふわの毛並みのピースは、ぬいぐるみみたいに愛らしかった。だからその姿を見ると、些細な嫉妬心など何処かへ吹き飛んでいった。  それに、ピースの名付け親である父は、時々思い出したかのように、名前の由来をわたしに語ってくれた。 「『ピース』は、『お前がいつも平和でありますように』っていう願いを込めて付けたんだよ」と。  どうせお調子者の父のことだから、どこまで本当なのか怪しいところだ。でも、幼稚園、小学校、中学校と、新しい環境に入れられる度に、戸惑い、時に傷ついたりもしたわたしにとって、ピースが心を和ませてくれる存在であったことは疑いようがなかった。  毎朝、ピースと一緒に近くの海辺を散歩する時間は、電池の切れかかったわたしの大切な充電時間でもあったのだ。わたしが笑顔を取り戻すと、ピースも嬉しそうな表情を見せ、大きな体を揺らしながら、思いっきり砂浜を駆け回った──。  けれど……。  子犬の頃からのかかりつけの獣医さんによると、そんなピースも、もう長くはないらしかった。  最近のピースはあんなに大好きだった散歩へも出掛けなくなり、家でじっとしているばかりだった。  ピースが、いつまでも自分と一緒にいるものだと勝手に思い込んでいたわたしは、獣医さんに現実を突きつけられた時、あまりに悲しくてボロボロと泣き出してしまった。  ピースに泣き顔を見せたくなかったわたしは、用事もないのに寄り道をして、わざと遅い時間に帰宅したりすることもあった。それでもピースは、目ざとくわたしの姿を見つけると、すぐに隣にやって来てはうずくまり、体を寄せて眠りについた。そんなピースの背中を、わたしは涙をこらえながらやさしく撫で続けた。  ひんやりとした秋風が吹き抜ける、よく晴れた朝のことだった。ピースが珍しく玄関に居座り、散歩をせがんだ。 「本当に、大丈夫なの?」  わたしは心配で仕方なかったけれど、扉を開けるなり、ピースは弱々しい足取りで表へ出た。そしていつもの散歩コースだった近所の海辺の方へ、ゆっくりと歩き始めた。  オフシーズンの砂浜は、人影もまばらで、わたしは余計に悲しくなった。ピースは歩き慣れた散歩コースを一歩一歩、かみしめるように進んでいった。  静かに満ち引きを繰り返す波をぼんやり眺めている時だった。10メートルほど離れた波打ち際に、一瞬きらりと光るものが見えた。  すると、ピースが急にそちらへ向かって走り出した。濡れながら波の中を探し回り、ようやく何かを見つけ出した。最近のピースの様子からはとても想像もできないくらい、俊敏で力強い動きだ。  ピースが咥えながら持ってきたのは、古いガラス瓶だった。手に取ってよく見ると、栓がしてあって、中に紙切れのようなものが入っていた。  わたしはすぐに栓を捻じ開け、中身を取り出した。きれいに折りたたまれた黄なりの上質紙を、慎重に開いていった。葉書ほどの大きさのそれには、手書き文字で、短いメッセージが書かれていた。 『     たとえ僕がこの世界からいなくなっても、      悲しまないで    また何かに生まれ変わって、    君のそばに現れるから      だから、これからも、よろしくね                        』  わたしは震えながら、何度も何度もその言葉を読み返した。それが「誰」から「誰」への想いを伝えたものなのか、すぐに理解できたからだ。    手紙を元通り折りたたみ、わたしはそれを胸ポケットにそっとしまった。そして空っぽになったガラス瓶を水平線にかざした。 (遠い海の向こうの、何十年も前の世界から、ピースに生まれ変わる前の君が、送ってくれたんだね)  ピースは、いつの間にか体を倒し、わたしの膝に顔を乗せたまま、すやすやと眠り始めていた。その表情は、どこかほっとしているように見えた。  わたしは丸くなったピースの体を、いつまでも、いつまでも抱きしめた。    海は穏やかな日差しを浴びて、やさしくきらめいていた。 「これからも、よろしくね」  ピースの声が、心の中で確かに聞こえた。 
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