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これからも、毎日。
「せんせー! 結婚しよ?」
「断る」
日課になっているこんなやり取りにうんざりしながら、俺は次の授業の準備を進める。
あーあ。嫌になる。顔を合わせる度に求婚してくる生徒にも、俺たちの様子をにやにやしながら見ている同僚たちにも。
ここは、個別指導の塾。俺はここの講師をやっている。主な担当は中学生の数学。塾自体がそんなに広くないので、いろんな学年の奴らと顔を合わせることが多い。別にそのことについて気にする必要は無いが……困ったことに、俺はひとりの生徒に付き纏われている。誰かに俺の勤務状況を聞き出したのだろう。奴は、俺の休憩時間になると、どこからともなく現れて俺に絡んでくる。
「せんせー、数学教えて?」
「お前は高校生だろ? 専門外だ」
「えー!? せんせー、高校の数学出来ないの!? だから教えてくれないの?」
出来るわ馬鹿たれ!
その言葉をぐっと飲み込み、俺は遅めの昼食を取ることにする。節約のために始めた弁当作りはもう二年目だ。最近はネットで新しいレシピを見つけては、それにチャレンジしている。
弁当箱の蓋を開けると、奴が遠慮も無しに、にゅっと中身を覗き込んできた。
「美味しそう! オレも食べたい!」
「やらん」
「けち! その野菜をベーコンで巻いてるやつが良いなぁ……」
「はいはい。俺に絡むヒマがあったら自習しろ」
俺は刺さる視線を無視して箸を進める。我ながら美味い。夕飯は……今日は遅くなるからコンビニで済ますことにしよう。いや、スーパーなら値引きの弁当が買えるか……。
夜のことを考えていると、不機嫌そうな声が俺に投げかけられた。
「……そんなに冷たいと、お嫁さんにしてあげないよ?」
「……は?」
嫁?
何を言ってるんだ、こいつは……。
「あのなぁ……嫁だの結婚だの言う前に、まずは大学に受かれ。ちゃんと卒業もして……来週は受験だろ?」
「……合格したら、結婚してくれる?」
「お前なぁ……」
こんなにアプローチしてくるなんて……どんだけこいつは俺に惚れているんだ?
若い者というのは分からない……俺だってまだ若いけれども。
「……学生とは付き合えない」
受験前の心を傷つけまいと考えて口にした俺の言葉を聞いて、奴は顔をぱあっと明るくした。
「じゃあ! 卒業したら付き合えるってこと!?」
「いや……」
「分かった! オレ、頑張って第一志望受かるね!」
「だから」
「それじゃ、自習室に行って来ます!」
せんせーバイバイ! と手を振りながら自習室に消えた奴の背中を、俺はぼんやりと眺めた。嵐みたいな奴だ。
「……ま、いっか」
頑張って受かってくれるならそれで良い。俺は気を取り直して食事を再開した。
***
それから奴とは嘘みたいに会うことが無くなった。
受験前の詰め込みで、顔を合わすタイミングが消えてしまったのだ。
毎日のように求婚されていた身からすると、ちょっと寂しい……寂しい!? 馬鹿な! これでこっちは仕事に集中出来るぞ! これは喜ばしいことだ!
だが、ちょっと気になる。数学、見てやれば良かっただろうか……。
「頑張れよ……」
俺の呟きは誰にも聞かれることなく、コピー機の機械音にかき消された。
そして、奴の受験当日。
俺は自宅のベッドの上でぶっ倒れていた。
風邪だ。熱が出て苦しい。
受験生が多いので何かあったら大変、という理由で、完全に治るまで俺は出勤してはいけないことになった。
「あーあ……」
出勤してれば、受験帰りの奴に会えたかもしれないな……なんて、馬鹿なことを考える。
なんだよ。こんな時にまで、俺の心の中に入ってくるなよ……。
「卒業したら、終わりだよな……」
そう、卒業したら奴だって視野が広くなるだろう。そうしたら、新しい恋を見つけて……いつか家庭を持つんだろうな。あんな一途な奴に思われる人間は幸せだろう。
「さよなら、だな」
卒業したら、塾に来なくなるのは当たり前。
そんな当たり前のことが、どうしてだか胸の奥で引っかかって苦しかった。
***
結局、俺の風邪は長引いて二週間も休んでしまった。
受け持っていた生徒に受験生が居ないことが幸いだった。体調管理、気を付けよう……。
「おはようございます」
そう言いながらミーティングルームに入ると……何故か奴が居た。学校の制服ではなく、スーツ姿で。
「あ! せんせー!」
「おわっ!?」
勢い良く抱きつかれて、俺はバランスを崩して倒れかけた。
どういうことだ? 何が起こっている?
俺は近くに居た塾長を見る。彼はおかしそうに口元を緩めながら言った。
「春からね……バイトに来てもらうことになったんだよ。今日はその面接でね……」
「バイト!?」
俺は驚く。
バイトって……ここで、奴が働くというのか!?
でも、まだ卒業していないだろう!? 受験だって、結果はまだだろうし……。
俺の表情を見て全てを理解したのだろう、奴はにやりと笑う。
「卒業は確定したって通知あったし、大学はとりあえず滑り止めは受かったし! 本命も自己採点は完璧!」
「はぁ……」
「せんせー! 俺、卒業だよ? 結婚しよう?」
甘えるように俺にくっつく奴を、俺は払いのけることが出来ないでいた。
なんだよ……卒業しても、まだここに来るのかよ……ばーか。
奴は俺に顔を近づけながら言う。
「ね、これからもよろしくね。せんせー?」
そう言う奴に、俺は笑いながら告げた。
「……学生とは結婚出来ない」
「え、えーっ!?」
あからさまに肩を落とす奴の眉間を、俺はつついた。
「大学、頑張って卒業しろよ?」
「う、うん……卒業したら、結婚してくれる?」
「どうかな」
馬鹿みたいにしつこい奴。
けど、今は嫌じゃない。
不思議だ。はたして、奴は四年の間、また俺に求婚し続けるのだろうか。
「そのスーツ、ぼろぼろになるまで働けよ、先生?」
「ま、任せてよ! そしてせんせーを幸せにするから!」
初めての給料でディナーね! と胸を叩く奴を見て俺は笑う。
頼もしいな、俺の未来の旦那様?
なんてことは、まだ言わないでおこう。
俺も四年間は「大人」でいないとな。
これから続く、新しい関係の俺たちはどうなるのだろう。ふわふわと踊る胸で、俺はとっくの前から奴に捕らわれていたことを噛み締めた。
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