よろしく

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   心臓の移植手術を受けた一年後、道永は職場復帰までこぎつけた。  明日、久々の出勤だ。退院後は自宅療養。元々父親の会社で働いていたため、気兼ねなく治療に専念できた。さらに移植した臓器との相性がよく、免疫抑制剤を飲まずに済んでいる。医師からは奇跡と言われ、道永は気をよくした。やはり自分の判断は正しかったのだと。  移植から一年が経ったが、斉木徹は行方不明扱いだ。闇市場で、彼の心臓以外の臓器は高値で取引されたらしい。その事実を知る者は極めて少ない。道永も黒スーツの男から聞いただけだ 「これからもよろしく頼むぞ、俺の心臓くん」  上機嫌で笑っていると、自室の扉がノックされた。「入ってくれ」と声をかけると、小柄な男が入ってきた年配で頭頂部が禿げ上がっている。 父親が選んだプライベート専門の顧問弁護士だ。口の堅さを重視して選定したらしいが、道永はこの男の遠慮がちな話し方が気に入らなかった。 「先日ご依頼を受けました片山弥生さまの件ですが、最終的な判断を仰ぎたいと思いまして……」  弁護士の言葉に不快感を抱いた。少し前に交際していた女性とのトラブル処理を任せていたのだ。短い期間だが深い関係にあった女だ。道永の手術が終わった頃合いを見計らったように子供を産んだと弁護士を通して知らせてきた。  道永は内心「頭が悪いな、この弁護士は」と歯がみした。認知はしない。無視しろと言っておいたのに。 「前にも言っただろう。子供を勝手に産んだのはあの女だ。俺の子供である証拠はどこにもない」  道永は独身だが当分結婚をする気はなかった。第一、彼女と別れたのは心臓に異常が現れる以前の出来事だ。本当に自分の子供かも怪しい。 「わ、わかりました」  依頼内容を承諾しつつも弁護士の表情は晴れない。見ている道永のほうが苛立ちを覚えた。 「う……っ」  胸の中心に激痛が走る。イスにすら座っていられず床へずり落ちた。 「雅史さん、大丈夫ですか?」  使えない弁護士が手を差し伸べてきたが、その手に縋る余裕はない。心拍数が上がる。  胸をかきむしって悶えた。息ができない。 「と、取り消す」  そのひと言が合図になったのか、胸の激痛が止み、気管に一気に酸素が流れ込んだ。カーペットの横たわったまま息を整える道永のそばで、弁護士が恐る恐る確認をとる。 「雅史さん、今なんとおっしゃいましたか?」  脳に酸素を送り込むのに必死で、すぐに返事はできなかった。 「……取り消すと言ったんだ」  例えるなら、心臓を鷲づかみされたような感覚だった。  それが意味しているのか、道永は気づいてしまった。 「まずはDNAで親子鑑定させろ」  心臓を――。  心臓を人質にとられた。  道永は、広い天井を見上げたまま途方に暮れた。死なずに済んだが、これまでの自由はもう戻ってこない。戻らない――道永は確信した。  これは、斉木の呪縛だ。 「くそ……っ」  痰でも吐き出しそうな言い草だった。 『よろしくな』  自分とは別の、体に伝播する声に鳥肌が立つ。  気を失う寸前、斉木の笑顔を見たような気がした。  了
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