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「俺の心臓は俺のものだ。おまえなんかの好きにはさせない」
斉木は勢いよく椅子から立ち上がる。テーブルの桃のシャーベットは溶けだしていた。
扉の前に黒スーツの男が立ちはだかった。てっきり妨害されるかと思ったが、道永が「通してやれ」と退室を許した。
黒スーツの男が扉から離れると、斉木は振り向きざまに言い捨てた。
「何でも思いどおりになると思ったら大間違いだぞ!」
大股で店を出た。店員が何か言っていたようだが、その声は斉木の耳には届かなかった。
「やっぱりあいつは狂ってる」
後ろから誰か追いかけて来やしないか振り返ってみる。店内からの追手はいなかった。斉木は夜の雑踏を速足で移動する。一分一秒でも早く道永がいるあの店から離れたかったのだ。
「……あいつ、まさか俺を担いだわけじゃないだろうな」
心臓を譲ってくれなんて突拍子もない話は、じつは心臓移植なんて話は冗談で、相手は斉木の反応を見て面白がっていたとしたら。
だが――道永の不調は嘘ではないだろう。あの顔色の悪さはメイクで装えるものではなかった。
横断歩道の赤信号に足を止める。
「金があれば何でもできると思ったら大間違いだぞ」
誰に話しかけたわけでもないが、不満が口をついて出てしまった。
だが次の瞬間、背中に鈍い衝撃を受けて斉木はそのまま前によろめく。クラクションがけたたましく鳴り響いた。バランスを失った斉木の体は直進してきたワゴン車に跳ね飛ばされた。
「人が轢かれたぞ!」
「誰か救急車を呼べ!」
現場に居合わせた人間が口々に叫ぶ。数メートル先に飛ばされた斉木の周囲に人だかりができた。
アスファルトの路面に血が広がっていく。しかし、斉木は即死ではなかった。
「く……そぉっ」
狭い視界に黒スーツの男が映っていた。スマホで誰かに電話している。本能的に相手が道永だとわかった。
道永は欲しいものは必ず手に入れるつもりでいる。たとえ他人が犠牲になっても罪悪感に苛まれることはないだろう。怒りの次に斉木の思考を占拠したのは反抗心だった。
――あいつの思いどおりにさせてたまるか。
呼吸が止まる最後の瞬間まで、斉木は呪文のように念じた。
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