化物

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 同居人である三崎諭とは大学からの付き合いだ。  我らの母校は芸術系統の全てをごった煮にしたような美術大学で、校内は人種性別年齢問わず、自己主張を身に纏った人々で溢れ返っていた。  人の印象は見た目もとい外見が八割だと言うけれど、そんな第一印象で付き合う人間を決めていたら孤立必至な場所だった。実際に話してみなければ、人と成りは分からない。外見は自分自身を表すものだが、あくまで主張であり、例えば全身にタトゥーが入っていても危険な組織に属している訳ではない。話してみれば、基本的には皆、同じ。自分の興味や目的の為に、芸術を学びにやって来た学徒達だった。  俺と諭は演劇コースを選考していた。入学オリエンテーションで隣の席になって、それ以降一緒にいる。  俺は単純に俳優として食っていきたくて芸大へ進んだ。小学生のころから児童劇団に所属していて、その中でも頭一つ分演技力が抜けていたから、俳優としてならば食っていけると思った。  考えは間違っておらず、中学も高校も、演技力のお陰でとんとん拍子に進んだと言ってもいい。ずっと演劇を中心に生活が回っていた。  演劇コースの人間は他の専攻に比べれば、外見は普通よりであるものの、中身はとんでもない奴が多かった。  出会った当時の諭はその筆頭だ。苛烈で傲慢。芝居の為に必要なもの以外を全て自分の世界から締め出していた。  傍目には気が良くて付き合いやすい、人懐っこい奴に見えていただろう。所属していたバトミントンサークルの活動に全て参加し、先輩からも後輩からも誘われたら決して断らない。恋人もいたのを知っている。  しかし、それらは全て芝居に必要だからやったことだ。怪物としか思えない。  俳優には「登場人物の感情を想像して演技をするタイプ」と「自分の経験を基に近しい感情を持ってくるタイプ」が存在する。  俺は前者で、諭は後者だった。出来るだけ、色々な経験をして見たかったのだと言っていた。「サークルは楽しかったし、彼女の事も愛してたよ。全部良い経験だったなぁ」そう言うのだ。  役のために生活習慣を全て変えるし、アルバイトも転々としている。その上、全部日記につけているのだから恐ろしい。  必要だから先輩の彼女を寝取って、先輩にぶん殴られた。顎の骨が砕けて、サークルを辞める羽目になっても大学と演劇は決して辞めなかった。  それがあってか、諭の演技は同学年の中では誰よりも上手くて、役の本人そのものとしか思えない迫力があった。適切な感情を引っ張り出しているのは良く分かった。  諭の芝居を目にする度、俳優ってのはここまでしていかないと成れないのだろうか? と胃が痛んだ。一時期、こいつは殺人鬼の役の為に人を殺すんじゃないかと危惧した事すらある。純粋無垢な姿が恐ろしかった。 「侑ちゃん、俺の事そんな風に思ってたの? 心外だなぁ。そんな事しないって」  演劇実習は学んだ演劇論を使って、実際に芝居をする講義だ。二十人がペアを作り、順番に演技をして、授業始めに配られたプリントにそれぞれの評価を書き込んでいく。  人を殺した男の役の時があった。演者交代の最中に尋ねてみたら、あっけらかんとした言葉が返ってきた。骨が砕けているせいで喋りにくそうだった。 「でも、今喋ってる時に考えてることとかもどこかで使うだろ」 「使うよ。俺に出来る芝居だから。『友人に殺人事件の犯人だと疑われた時』とかかな?」 「ピンポイントだな。ありそうだけど」 「刑事ものとかならいくらでも使えそうだよね」  諭は笑って、それから、いててと目を歪めた。  結局、当然だが、諭は殺人鬼の役を貰っても人を殺すことは無かった。人なんて殺しては、今も俳優として仕事をしている訳がない。  諭には生活リズムが存在しない。役作り、それから俳優としてのスケジュールの不安定さによって、生活習慣は完全に破壊された。  本日は、俺が夕食と入浴を終えて、毎日の楽しみである晩酌に勤しみながら、台本を眺めている最中に帰ってきた。 「ただいまぁ」  玄関が開く音の奥で帰還の挨拶が聞こえた。合わせて「お帰りぃ」と煩くない程度の大声で返す。  廊下をとたとたと歩く音がする。  空気が篭りやすい部屋なので、扉は常に開きっぱなしにしている。窓も開いたままにしておきたいが、パパラッチが怖いのでカーテンすらも引かれたままだ。夜景が綺麗なマンションだと評判だが、九階からの風景は滅多に見ない。  扉の方を向いていると、仕事用のリュックサックを腕に掛けた諭と目が合った。ビールの缶を軽く掲げる。 「お帰り。割と早かったな」  諭は俺の顔を見てもう一度「ただいま、侑ちゃん」と帰宅の挨拶をした。 「気心知れた人達ばっかりだったからさ。撮影の進みが段違いだね」  それだけ言って諭は「ちょっと荷物置いてくる」とリビングの前を通り過ぎて行った。  遠ざかっていく足音に向けて、 「風呂行って来いよ」  と言えば、 「はーい」  と声がした。  部屋の奥で扉が開く音がして、それからまた廊下に足音が響いた。ガラガラと引き戸が開かれる音がして、すぐ後にシャワーの音が聞こえ始める。  諭が風呂へ行っている間に夕食の準備をしておく。台本と缶を置いて、キッチンへ向かい、冷蔵庫からボウルを取りだす。  諭は撮影後に大抵、共演者やスタッフさん達と食事をしてくる。帰宅後は基本的にはサラダとスープしか食べない。外食だと不足しがちなミネラルとビタミンを摂取する。  本日は海藻サラダだ。塩蔵わかめとレタスを一緒に揉み込んで、米酢とごま油で和えただけのお手軽なもの。  諭が「最近、便秘気味でお腹の調子が良くない」と嘆いていたので、食物繊維とビタミンが豊富なわかめを使った。塩蔵わかめに普通のドレッシングを使うと塩辛くなりすぎると思って、浅漬け風にしてみた。  最近は暑い。ただでさえ、室内屋外問わず様々な環境で仕事をしているのだから、エアコンで体の芯まで冷やされた体は、外気に晒された瞬間に一気に汗を掻く。なれば塩分補給は必須だ。息をしているだけで汗を掻く。諭はもっと塩分を摂ってもいい。  サラダと箸を用意し、冷蔵庫から更に麦茶を出した時に諭は戻ってきた。もっとゆっくり浸かるべきだと常々思うが、奴の烏の行水は今に始まったことではない。  まだ濡れたままの髪の毛をタオルで拭きながら、机の上を見るなり、 「うわ、旨そう」  と言い、タオルを首にかけた。左程手間が掛かっていない料理でも、こんなに喜んでもらえると嬉しくなる。 「俺、わかめ好き」  諭は椅子に座り、手を合わせた。俺は麦茶を小鉢の側に置いて対面に座った。咀嚼音を聞きながら、ビールを傾ける。 「超美味しい! やっぱり夏はちょっとしょっぱいのがいいよねぇ。さーすが侑ちゃん、センス良すぎ」 「そうか。もっと食え。……ところで、なんで髪の毛乾かしてこなかった?」  髪から水が滴っているのは非常に気になる。ちゃんと拭けてもいない。ぽたぽたとタオルに落ちているものの、たまにパジャマの方へ落ちて、灰色のストレッチ素材を黒へと変えている。  諭は視線を宙へ向けてから、えへ、と肩を竦めた。 「面倒でさ」 「身体と外見も重要だ、って大学で言われたろ……」  思わず頭を抱えてしまう。  とは言え、既に座っている人間をもう一度立たせるのは気が引ける。それに、疲労困憊で帰ってきたのは分かっている。目の下の隈が今朝見た時よりも一層濃くなっている。  髪を乾かすのはなんだかんだ言って面倒な行為だ。俺はほぼスポーツ刈りなので自然乾燥で事足りるものの、諭は一般的な男性にしては長めで、元の髪質も柔らかい。癖が付きやすく、寝癖は中々直らない。しかも傷みやすい。乾かし方に順序が存在して、自然乾燥なんて以ての外。乾かした後もオイルで保湿しなくてはいけない。  諭は大学卒業と同時に「水野颯太」という名で俳優業を営み始めた。学生の頃から演技力に目を付けていた芸能事務所からのオファーを受け、そのまま所属俳優になった。二.五次元俳優として、ゲーム原作の舞台にて知名度を上げ、現在はWebドラマを中心に活動している。最近、地上波にも出演するようになってきた。  本当はすぐにでも寝て欲しい。諭のスケジュールは常にギチギチだ。二か月先まで予定で埋まっていて、完全休みなんてものは殆ど存在しない。忙しい時はいくらでも忙しいくせに、暇な時はとことんやることが無くなってしまう。将来が不安定過ぎるので、人気がある時に稼いでおく必要がある。それが俳優、延いては芸能界で生きる者の宿命だ。諭と生活していると、俳優とは大変な職業だとつくづく思う。  一時期、共に同じ道を志していた者として、その苦労の一端くらいは察することが出来る。  俺は結局、俳優として生きることは無かった。芸大の四年間でプロとして生きるには力量が足りないと思い知ってしまった。  卒業後は芝居とは関係のない職業へ就職した。広告代理店の経理課で働く、一介の事務員だ。  完全週休二日。祝日もちゃんと休み。保険制度もしっかりしているし、例え急な病気で入院が必要になるなどのアクシデントが発生しても、休職届を提出すれば、その分の補助金が保障される。正直言って、良いところだ。働きやすく、休暇も割かし取りやすい。  わかめを飲み込んで、諭が口を開いた。 「身体が重要なのは誰だって同じでしょ? 侑ちゃんもあんまり顔色良くないよ。寝れてる? 食事は?」 「お前よりは寝てるし、あんまり寝なくても大丈夫だから。飯も普通に食ってるよ。そういや、台本読んだ。いつでも台詞合わせ出来るから」  壁掛け時計は現在時刻を二十二時十七分だと指している。俺達にしては遅い時間ではない。 「……ありがとう。でも、無理しちゃ駄目だよ。朝早いんだし、遅くまで起きてサラダ作ってくれなくても大丈夫。台本読みも余裕ある時でいい」  無理はしていない。どんな遅い時間に寝たとしても、アラームが鳴れば何時にでも起きることが出来るのが俺の特技だ。布団に入れば三秒で眠ることも出来る。若いうちだけだよと、十歳上の職場の先輩に言われたがそんなことは無い。多分、俺は左程睡眠を必要としない人間なんだろう。 「諭らしくないな」 「はぁ? どういうことよ」 「俺の体調とか気にするのかって思っただけ」 「一緒に住んでるんだから、健康くらい気になるでしょ」 「大学の時のお前は熱出して寝てる俺に『この台詞やって』ってまでアパートまで押しかけてくる奴だったろ。それくらいなら今も出来るけどな。もしかしてお役御免ってことか?」  まともに練習をしていないせいで演技力は年々落ちている。諭が満足いくレベルにはとてもじゃないが届いていない。俺から得られるものはほぼほぼ無いだろう。台詞読みも家事もする必要が無いのなら、俺が住んでいる意味は無くなる。それが同居の条件だからだ。  俺は卒業から二年が経ってから就職した。  俳優としての限界を突き付けられて、四年時に就職活動に乗り出したものの、演劇一本で過ごしてきた俺が就ける職業は、演劇系統を除いてしまうと中々見つからない。実家に戻って、親の脛を齧りながらアルバイトをしてどうにか正社員として就職しようかなどと、甘ったれたことを考えていた。  そんな折に既に事務所所属が決まっていた諭から「俺の家で一緒に暮らさない?」と誘われた。  卒業式の前日、ゼミ内での卒業パーティーを終えた後だ。  大学から学生アパートが立ち並ぶ住宅街までは徒歩十分圏内。街灯が少なく、星が良く見える中を二人で並んで歩いていた。  パーティーで余ったソフトドリンクや酒瓶が幾つも入った買い物袋が悲鳴を上げている。途中まで下げていたが、怖くなって腕に抱えた。 「なんで?」 「侑ちゃんに帰ってほしくないから。実家」 「どこから聞いた」 「まぁ伝手はあるよね」  ゼミの担当教授にしか言っていないのに。情報網が凄い。  溜息を吐いて「その心は」と言う。 「演技が出来て、俺より家事も出来る! 俺の家に住んでもらって家事をしていただけませんか……!」  滅多に人に頼み事などしない諭が頭を下げた。内容はあまりにいつも通りだった。 「台詞合わせの相手ってことか? んで、ついでに家事もやって欲しいと」  コクコクと頷かれる。 「何があっても養うから! 衣食住なにも心配しないで!」 「やだよ。実家戻って仕事探す」  既に荷物の殆どを実家に送ってしまっている。身一つで今更何処へ行けと言うのだ。 「芝居、完全に捨てちゃっていいの?」  腰を曲げたまま首だけ上げて、諭は真っすぐ俺を見ていた。妙に澄んだ瞳を思いっきり殴り飛ばしたくなる。衝動はどうにか押さえ込んで、掌を握り締めた。  俺の限界を突きつけたのは他でもない、諭自身だ。  諭はそれを知らないだろうが、俺にとっては一度死んだも同然。それなのに墓を暴いて、死体に喋れと命じてくるのだ。泣けてくる。酷い男だ。 「侑ちゃんの芝居は俺には絶対に出来ない。だから、もっと知りたい。才能の限界は俺も一緒だよ」  多分ねと言って、諭は目を伏せた。  その時初めて、目の前の男が同じ人間に見えた。 「ごめん」  その一言で少し前の日々に飛んでいた意識が引き戻された。 「なにが。なんかしたか」  謝られる様なことをされた覚えはない。  諭は箸を握り締め、視線はわかめに固定されていた。 「侑人は俺と暮らすの、辛い?」 「……いや、楽しい」  少し考えて、缶を傾ける。  同居の提案をされた時は本気で苛立ったが、生活自体は悪くなかった。俳優として第一線に立ち続ける諭の努力の一助を担えるのは楽しかったし、出演作品で努力が実を結んでいるのを見るのは嬉しかった。  結局、俳優の道を諦めたのは俺自身の選択でしかなく、諭の存在はあくまで要素でしかない。諭を恨むのはお門違いだ。  俺の返答を聞いて、諭はあからさまに肩を撫でおろし、視線を上げた。それほど緊張する質問だったらしい。 「侑人って、いろいろ隠すの上手だから安心した」 「そうか?」 「うん。だって、体調不良は絶対に言わないし、俳優辞めることも相談してくれなかった」  俺の選択だから、誰かに相談する必要はない。いつだって相談する時には、既に腹は決まっている。 「決まってたとしても、言って欲しかったのか?」 「そうだよ。侑ちゃんはいつも自分で決めて、我慢して、なんでもない感じで全部終わらせてるんだもん。俺がどう思うかなんて知らんぷりだ。侑ちゃんが辛いと思うことはしたくないし、元気に暮らして欲しい。でも、急にいなくなられたらちょっとキツイ」  目の下黒いね、お揃いだ、と泣きそうな顔で笑う姿は、傍若無人な諭とは思えない。 「なに、新しい台本貰った? それとも新しい演技のレパートリーの為?」  諭は首を横に振る。 「両方違う。貰った台本は侑人が持ってるやつだけ。分かってるでしょ」  あまりにしおらしいのは、調子が狂う。態度を変える時は大体新しい役作りだから、その一環だと思いたい。  そうでも無ければ、真っすぐに俺を見つめる瞳を見返せない。同居を提案してきた時と同じ、澄んでいるのにどこか熱の籠った瞳で懇願してくる。  付き合いが長くなればなるほど、演技と素の境は明らかになっていく。段々と今は演じていて、今は本音であると分かってくる。  俺が登場人物の感情を想像して演技をするタイプであることも、助長したのだろう。人の感情を読み取るのは得意な方だった。演技力が衰えても、別の能力は健在らしい。  懇願。強烈な憧憬。熱量。一般的な感情に当てはめるなら、恋が近い。  芝居しか見えていなかった男は俺を見ている。あの頃は判らなかった。一緒に暮らし始めたから気がついた。  恐ろしい程、純粋に演じることだけを突き詰めていた奴が俺を側に置きたいと全身で発している。 「なんで俺のこと好きなの」 「入試の実技で一番感情表現が上手くて……違う、そうなんだけど違う」  疑問をぶつけると、諭は頭を抱える。 「最初、侑ちゃんといたのは感情表現を上手くなりたかったからだよ。技術をある程度学ばせてもらったら離れようとか、最低だね俺。でも侑ちゃん、俺が芝居しか頭にないって分かってくれた。喧嘩に巻き込まれても味方してくれたんだよね。それで俳優にならないって聞いて、驚いて、焦って」  先輩の彼女を寝取って殴られた時も一緒だった。俺が先輩を止めなければ、顎だけでは済まなかっただろう。本当は怪我をさせないようにしたかったが、喧嘩などまともにしたことのない人間では無理だった。  諭はついに泣き出した。涙腺が壊れてしまったみたいで、火が付いたように声を上げる。 「行かないで侑人。お願いだ」  結局の所、俺も同族だ。  芝居のことしか頭になくて、より良い演技をしたい、見たいだけ。演者に戻るつもりはない。だからどんな糧にもなれる。  今は、俺のほうが化物だ。諭が人間になった瞬間、俺は芸術作品を求める化物になった。目的の為なら恋も愛も利用する。  諭が芝居を続ける限り、俺が側を離れることはない。
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