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物心ついたときから男が嫌いだ。無遠慮に人を始終見張っているし,自らの姿をわざわざ曝しにくる。敢えて目を背けていても,どうしてそこまでする必要があるのかというぐらい視界にこじいってくる。例えばオフィスの廊下で資料をぶちまけたり,街路の側溝に滑りこんで靴を濯ぎだしたり,屋上から自宅前のバス停に飛びおりたりと。
そんなことされた日には眩暈を催し,吐き気もとまらない。体調不良に陥り,万事億劫になってしまうのだ。彼らはそれを狙っているのかもしれない。自らの価値を認めない相手に憤り,敵視し,従順に手懐けようと制裁を加えんがために心身両面からの攻撃を繰りだしているに違いない。
8人目の自爆攻撃を受けた直後だ。再発を恐れるあまり,つい挨拶を交わしてしまった上司の糊本はまるで特別な約束でもしたみたいに四六時中つきまとう。案の定,大量の電話やメール,ファックスや手紙がくるようになり,終業後の接待の強要,マンションエントランスでの待ち伏せ,深夜のベル押しへと事態は悪化していく。
外出が恐くなり,ひきこもり生活に入った。ドアノックに悩まされつつ,タオルケットを頭までひきかぶり,転職サイトで新しい仕事を探していた。
突如スマホの画面が真っ暗になる。どのボタンを押しても全ての機能が作動しない。
数秒後に赤い文字列が浮かびあがり右から左へ流れる――れあゃり戻にめ勤おのとも。
何? どういう意味?
同じ文字列が消えては映り,また消えては映りの繰り返しだ。その繰り返しの4巡目に,はっと気づいた。右から左へ読めばよいのだ。
もとのお勤めに戻りゃあれ。
スマホのベルが鳴る――
スマホを投げだし,ベッドに飛び起きる。
多分,糊本だ。
スマホと距離を保ち,画面をそっと覗き見る。
独りでにスマホが機能を復元させて画面に応答中という文字が躍りでた。
「そろそろ本来のお勤めをしておくりゃあね」女の声が聞こえる。「おまえがいなけりゃ捗りが悪くていけねぇのさ」
「誰ですか」
「誰って?――あたしとおまえの仲でそりゃあ,あんまり薄情ってもんじゃないかえ。顔を見りゃあ,すぐに思いださあね」
「顔を見りゃあ?……あなた,何処にいるんです?」
「戸の外さ」
「戸の外? ノックしてたのは,あなただったんですか?」
「違うよ。脂ぎった狒々まがいの男さ」
……糊本だ。
「でも,もういねぇよ」
「追い払ってくれたんですか」
「あたしが? そんなこたしねぇさ。死臭を発散してる奴なんぞに近寄りたかねぇもの。臭くてたまんねぇから,あいつがよそへ行くのをじっとこらえて待ってたのさ。全く諦めのわりぃ男だったね」
スマホのむこうから車の急ブレーキと衝撃音とが伝わった。女性の悲鳴が耳を劈く。
「あああぁ,やっぱりねぇ……」溜め息を漏らし,糊本が車に轢かれたと告げる。「ねぇ,いきなり現れるのも,記憶の薄れたおまえには酷だと気遣って御挨拶をいれたんだ。野次馬も増えてきたし,そろそろなかにいれてもらうよ。何せ自制のきかないほうだからね,綺麗で生きのいいのがいたら,食いついて騒ぎになってもまずいじゃないかえ――」
眼前に人のフォルムが描かれ,瞬く間に色彩と立体感と実質味とを備えた。
いつか何処かで目にした絵巻物か何かから抜けだしたような格好をしている。そう――直垂に,四幅袴だ。平安時代の庶民の装いだ。文様はなく白ずくめの装束と対照的な肌は,折烏帽子よりやや薄い程度の色黒だが,顔立ちは悪くなく,青みがかって見える瞳はたいそう澄んでいる。
「声色をつくったのは,おまえが男嫌いだからさ」両袖を翼みたいに羽ばたかせて弁解する。「女の声で語れば,おまえも耳を貸すってもんだろ」舌先を覗かせ,そばに滑り寄る。
普通の男に対して感じる抵抗を覚えない……。
「男を忌み嫌うおまえだが,自身の男だった頃をお忘れであるまいねぇ。おまえほどの女好きもおるまいて。そのくせ朝顔の萎むみてぇに気持ちが移って,お定まりのお払い箱さね――お気の毒に。此岸での煩いは身から出た錆だろう。かつて袖にした女たちが,女に転生したおまえを難儀させておるのさ。男どもを使って仕返ししておるのさね」
「返報せでおくまいか――草の根分けても捜しだし必ず返報してやるぞ――」
女は髪を振り乱し,歯を剝き,私の喉もとに食らいつこうとするも,毒蟻みたいに群がる飢えた仲間の餌食となった。
女の名は――知らない。聞いたことはあるが,忘れてしまったのだろう。ただ山奥の空ろ木に移り住んでからは露草を愛でていたので,露草内親王と呼んでいた。帝の御娘だったのだ。
風の強い晩だ。火焚き屋の衛士が,御簾のはねあがった刹那,生絹に似た単衣をしどけなく纏う御娘の立ち姿を垣間見て徒ならぬ気を起こした。逃亡しようとするが,我も伴えと縋りつく女を無下にはできず,私は御娘を盗みだした。
高貴な女は気立てもよいと思っていたが,まるで違った。山菜採りの娘たちと戯れあったぐらいで女どもの生首を並べろと命じたり,見知らぬ姉妹の浅慮,性悪,奇癖,痴情沙汰などをくだくだ聞かされた。身繕いも疎かになり,容貌も忽ち衰えた。邪魔になった。纏わりつかれて耐えがたい嫌悪を催す……。
「内裏にお帰りなさいますか? やはり下々のお暮らしは似つかわしゅうござりませぬ」
「何を申す! 我はそなたがおればよいのじゃ! 命尽きるまでそなたと添い遂げる心勢いぞ! 我はそなたのもの,そなたは我だけのもの……」
仲間の千門に話をもちかけた。
「始末をつけりゃあれ」澄みきった瞳で残酷な裁断をする。「放っておけば,おまえを道連れに,白滝へでも飛びこもうっていう昂ぶりじゃないかえ。これまでだって自死された女はあまたいる。勿体ねぇよ。死んだ人の肉は臭くて食えねぇもん。生きてるうちに頂戴しねぇと」
露草内親王を人食い鬼――邪気に饗した。もっとも甘美な脳髄はタブラカシの役目に食する特権がある。うまかった。
「誑虎,いつも済まねぇな。これからも宜しく――」仲間たちに深謝される。
「タブラカシのおまえがいねぇと生肉にありつくのも容易じゃねぇのさ」千門が色黒の顔面をかいた。「もとのお勤めに戻りゃあれ」
「私は邪気だった……人を生きたまま食らう野蛮な鬼だ……」
「自分を蔑むような言い方はおやめ。どうせ放っておいたって,誑かされた人間たちは自死しちまうんだ。さっきの狒々男みたいにさ。だったら死ぬ前に邪気の餌にしたっていいじゃないかえ。死にたがってる人間を望みどおりにしてやるのさ」
「私が誑かすのが,いけないんだ。誑かさなければ,みんな自殺したいなんて思ったりしない」
「そりゃ,おまえ――誑かさないなんて業は無理だろうさ。だっておまえは邪気のタブラカシだもの。タブラカシの誑虎は人間を誑かすようにできてる。自分が望まなくとも,勝手に人間が誑かされてくれんのさ」
「私がいるからいけないんだ。私がいなくなれば,みんな誑かされなくなる」
「おまえねぇ,何遍おんなじ無益を繰り返してんだい。そんな風に自暴自棄になっては自死し,自死しては転生するの堂々巡りじゃないかえ。死んだって無駄さ。すぐに蘇ってくるんだから。あたしたちは不死身なのさ」
「どうしてこんな目に遭わなきゃなんないのよ! 私がいるだけで周囲の人が誑かされて,死のうとまでされてしまう!――そうだ,大昔に浮気者だったせいよ! 男だった時代に大勢の女の人を泣かせた罰なんだわ! だったら出家して女の人たちの霊を弔えばいい!」
「おやめ,おやめ――“袈慕瑠拝那寺の暁”っていう事件があったろう? 夜明け前に88人の僧や尼僧が互いを殺しあって寺が焼け落ちたっていう凄惨な出来事さ――あれは前世のおまえが出家した寺で起きたんだよ。男も女もおまえを巡って理性を失ってしまったのさ」
「私のような存在が生まれ落ちるとは!――ああ神さま仏さま!」
「……憐れな奴め……」
検非違使鋼綱は白拍子の頸部に押しつけた太刀を,泥濘む地面に突きたて胡坐をかいた。
「何ゆえ殺さぬ? 麻呂は誑虎なり。邪気のタブラカシを担う鬼じゃ――麻呂を殺せば,主の名は天下に轟こう!」
「高名など欲しておらぬ。人食い鬼を成敗し擾乱の世を鎮めたかったまでのこと。しかし,やめた」一頻り磊落に笑ってから,遥か彼方を見つめるような目つきをしたまま眉を寄せて分厚い唇を震わせる。複雑な感情の覗かれる表情だった。「食らうがよい」
「何? 何と申した?」
「構わぬ,我を食らえ」
「戯れ言か?」
「違うのだ――我はそなたが憐れでならぬ。誰からも愛されながら誰をも愛せぬそなたが。己の生を呪い,神仏に救いを求めても決して願いは叶わぬ。そなたは枯渇地獄を延々と彷徨うのだ」
「しかり――ゆえに殺せ」
「殺して何になる。神も仏も憐れんでくれるものか。神仏が罪深い邪気などに情けをかけるはずもない。如何せん,そなたは救われぬ。ならば我が救ってやろう。我が彼岸へ赴き,そなたの滅罪を神仏にはかってやろう」
「邪気ごときのために,何ゆえそこまで……」
「……うん,我もまた誑かされてしまったのだ。そなたを救ってやる」
鋼綱は地にさした太刀を抜きとるなり自らの腹に突きいれた。甘い血の匂いが押しひろがり,白拍子は自制を失った。
「けれども,おまえは鋼綱を食らわなかった」千門が青灰の瞳をころころさせた。「鋼綱ばかりか,あれ以来は人肉の摂取を断っている。そのせいで頭が呆けて記憶さえも薄らいじまった。このまんまだと邪気の力だって消失しかねないよ――あたしゃあ,ひどく案じておるのさね」
緊急車両のサイレンが接近し,マンション前で響き続ける。部屋のドアがけたたましく叩かれ,警察官が来訪を告げた。
ドアをあければ,またあなたですかと嫌みを言われる。先方の誰かの口から「洗脳殺人」という言葉を耳にした。数日間は警察署通いになりそうだ。
警察署につきそってくれた部長の仲津根から休職を勧められた。
「辞めろってことですか……」恐るおそる仲津根の顔を窺う。
「そうじゃない――」遠方を眺めるみたいな膜のおりたような目をして,眉を顰めたまま分厚い唇を緩める。困惑の微笑だ。「体も心もゆっくり休めてほしいのさ」
いつもの私なら流れに身を任せたきりだろう。だが無性に抗いたい気分が高揚していた。「いいえ――休んだほうが駄目になりそうで恐いんです。今回は申し訳ありませんでした。これからも宜しくお願いいたします!」
仲津根が快闊な笑い声をたてた。「そうかい。よかった。会社にそう伝えるよ」
(了)
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