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「あれ? 今日は花壇行かないの?」
下駄箱で靴を履き替えて、幼馴染の嶋くんが首を傾げるよこを、早足で通り抜けて階段を上がった。そのままずっと無視させてもらう予定だったのに、お母さんの「人と話す時は目を見てまっすぐ、ゆっくり話して愛想良くなさい」という教育が邪魔をして、結局足を止めると振り返る。
「今日から行かないことにした」
「なんで? 毎朝頑張ってたじゃん」
「だから行かないの!」
大きな声を出してしまったので、言い切る前に続けてごめんを言う。嶋くんは特に気にしていない様子で、それよりやっぱり僕が花壇へ行かないことのほうが気になるらしかった。
「行かないことにした理由、説明してよ。聞きたいから」
「そもそも僕がやってたこと自体がおかしいんだって気がついたんだよ」
「それは…だいぶ前に俺が言わなかったっけ?」
「…そうだっけ?」
覚えていない。また謝ろうとして口を開いて、片手で制された。僕がお母さんやお父さん、他の人に「治しなさい」と注意されるほとんどのことを、嶋くんは気にしない。
「誰かになにか言われた?」
「どうしてわかるの?」
「何組のだれ」
「生徒じゃなくて…」
そこで教室へついた。嶋くんと僕は出席番号順が前後なので、普段の席もそのまま前後だった。荷物をおいて、着席をすると同時に嶋くんが振り返る。
「名前教えて」
「…岡野さん」
「……おかのさん?」
オウム返しだった。初めて聞く言語みたいに繰り返して、嶋くんは首を傾げている。
「同学年じゃないよな。先輩?」
「生徒じゃないんだって」
「生徒じゃない…」
「いるでしょほら、いつも頭にタオル巻いてる、青いつなぎの」
「……あの用務員さん、岡野って名前だったんだ?」
嶋くんの目が、猫みたいに丸くなる。驚きと感心の入り混じった顔だ。いつも学校をきれいにしてくれている用務員さんの名前を覚えていないなんて、僕のほうがびっくりだけど、嶋くんがこんな感じなら、たぶんクラスのみんなも同じ反応をするんだろう。僕はなんだか、すこし変だ、とよく言われるから、多数派に属していたことがない。
「…それで? 用務員さんがお前になんて言ったの? ひどいこと言われたんなら、それはそれで生徒相手にするより問題だと思うんだけど」
「昨日の放課後、いつものように花壇の世話をしてるときにね」
「うん」
「これからもよろしくっていわれた」
「…それだけ?」
大きな声を出しそうになってしまって、慌てて口を押さえる。それだけじゃない。ないんだけど、わかってもらうために大声を出してはいけない。中学生になってもう半年も経つんだから、すこしは大人にならないと。ただでさえ僕は、人より少し変わっている…らしいんだから、中学校で悪目立ちなんかをして、またお母さんが学校へ呼ばれるようなことがあってはいけない。
「あー、ごめん。お前にとってはそれだけじゃなかったんだよな」
「嶋くんは僕のことをわかりすぎてる」
「まあ、幼馴染だし」
「僕は別に、好きで花壇の世話をしていたわけじゃないんだよ」
「うん」
「ただ、裏庭にあるから誰も見ていないし、世話もしていない様子だったから気になって」
「うん」
「一度手を加えちゃったら放っておけないから、なんとなくやめられなかっただけで」
「うん」
「入学以来、花壇の世話をしていたのはあくまでも僕の善意なんだよ。それを」
「これからもよろしくって、なんだか世話をするのが当たり前みたいに言われたのが気に食わなかったから、それ以降ボイコットしてやることにした、と」
「嶋くんは僕のことをわかりすぎてる」
「なんだよ嶋、また子守してんの?」
ずし、と身体が重くなった。どこからともなく現れた山村くんが、僕の頭を断りもなく肘置きにしたからだ。これが初めてではないから、きっと彼の家では、自分より背の低い人間は肘置きとして使って良いことになっているのだろう。それならきちんと説明しなくては。中学生なんだから話せばわかってもらえるはずだ。もちろん、お母さんに言われた通り愛想よく。そう意気込んで、まずはにこりと笑う。きみわるそうに眉を寄せる山村くんの前、嶋くんが立ち上がった。
「子守っていうの、やめろって言ったよな」
「はいはい。それより昼休みにクラスの奴らとバスケやるからさ、俺のチーム入ってよ。嶋がいると勝てるんだよね」
「お前と違うチームならやってもいいよ。どうせ女子が見に来るんだろ」
「…そうだ!」
しまった、思いの外大きな声になった。これじゃあさっきまでの我慢が台無しだ。山村くんの身体がびくっとはねて、頭がようやく軽くなる。近くにいた同級生が、一瞬何事かと視線を向けて、騒ぎの元が僕だとわかると、興味なさそうにそっぽを向いた。
「なんだよ僕ちゃん、騒ぐなよ」
「山村くん、君はたしか美化委員だったよね」
「は?」
「そうか。だったらこれからもよろしく、っていうのは、本来山村くんに向けられるべき言葉だったんだ」
「嶋、コイツなんの話してんの?」
「お前に花壇の世話をしろって言ってる」
「花壇…?」
山村くんはしばらく考えるような素振りを見せて、けれど何も思いつかなかったらしく、首を傾げている。
「多数決で美化委員になれなかった僕が選ばれた山村くんにこんなことをお願いするのはちょっとずるいかもしれないけど、明日から裏庭の花壇をお願いします」
「マジで何の話かわかんねえけど、そんなめんどいことするわけねえだろ。気になってんならお前がやれよ」
「岡野さんが来る前まではやってたんだよ。毎日ジョウロで水を…ジョウロは花壇の横に置いてあるからそれを使ってね。そうしたらスコップで」
「世話の仕方なんか聞いてねえんだけど。そもそも誰だよ岡野って」
「岡野さんは、僕がいつも話している…ああ、えっと、毎日学校の掃除を…掃除っていうのはみんなが放課後にやるようなやつじゃなくて、だから岡野さんは生徒じゃなくて」
「あー、もういい。お前と話してると具合悪くなってくる。嶋、あとでな」
何かを失敗してしまったことはわかったけど、具体的な理由は分からなかった。いつもこうだ。感情的にならず声を抑えて、相手にわかってもらえるよう丁寧に話をしているつもりなのに、結局機嫌を損ねたり、呆れられてしまう。
「山村がせっかちなんだ。お前の話は、ゆっくり聞いていれば十分に理解できるよ」
そう言ってくれるのは嶋くんだけで、小学校中学年くらいからは両親も「アンタの言ってることはわからない。せめて愛想よく笑って周囲と衝突しないようにしなさい」と言ってくるようになった。だから僕は、僕のことをわかりすぎている嶋くんと話す時は、たくさん考えて、考えながら愛想をよくして、適切なコミュニケーションを生み出さなくてはいけない。のに、また失敗してしまった。今回のことで親が呼び出されたらどうしよう。中学生になって半年で、半年しか経っていないのに、もうクラスに居場所がないなんてバレたら、どれだけ悲しませるんだろう。
「…とにかく、僕はもう花壇には行かないんだ。僕の姿が見えなくなったら、裏庭の花壇は岡野さんが世話をするだろう」
「まあ、お前が良いならそれでいいよ。昼休みどうする? バスケやる?」
「僕は運動神経悪いから、嶋くんだけで行って来なよ。誘ってくれてありがとう」
「了解」
そんな会話をしているうち、先生が教室へ入ってきて、ホームルームが始まる。大きな窓からは、今日も燦々と朝日が降り注いでいた。岡野さん、もう出勤しているだろうか。そうしたら裏庭の花壇を通りがかったりしていないだろうか。もし通っていたなら、水をあげてくれただろうか。いろいろなことを考えてしまって、慌てて首を振る。ぜんぶ、僕にはもう関係のない話だ。
これからもよろしく、と言われたとき、顔が真っ赤になった。昨日の朝、わざわざ体育着に着替えて、花壇で土をいじる僕の後ろ姿を見て、岡野さんはにこやかだった。だから絶対、岡野さんには僕を傷つけてやろうなんて意図はなかったのに、続けて言われた「君みたいに、熱心に花壇を世話してくれる生徒はいないよ」という言葉に、今度は顔が真っ青になった。君みたいな生徒はいない。それってつまり、僕はまた、間違えてしまったったことで。
可哀想だと思った。嶋くんが風邪をひいて学校を休んだ日、教室を抜け出してたどり着いた裏庭で、干からびた花壇を発見したときだ。雑草が目立ったけれど何かしらの種が植えられているのか、細いながらも芽が伸びていて、誰か寄り添ってくれる人がいればきっと、きちんと咲くことができる花たちなのに、人目につかない裏庭には、そんなチャンスがない。たぶん、僕だけだ。今この場で、これを発見した僕だけが、救ってやれる世界なのだ。そう考えたら、もう世話をすること以外に頭が使えなかった。
太陽は相変わらず、大きな窓から室内へ差し込んで、僕の机の上を照らしている。諸々の連絡を終え、早々に退散しようと荷物をまとめながら、先生が「ああ」と声を漏らす。
「そういえば、岡野さん……いつもみんなの学校をきれいにしてくれている用務員のおじさんが、盲腸でしばらく入院することになりました。用務員さんがいない間も、廊下や教室は綺麗に使おうな。じゃあ、一時間目まで解散」
◆
「おまえ、運動神経わるいって、ほんと?」
後ろから追いかけてくる嶋くんが、息を切らしながら叫ぶ。聞こえていたのに、答える余裕がなかった。キンコンカンコン。遠くの方で一時間目の始まりの合図が響いた。けれど、教室へ戻ろうとは思えなかった。そんなことより、と足を動かして、裏庭へ辿り着くと花壇へ飛びつく。土は乾いていて、あの日から世話をし続けて、ようやく元気を取り戻した芽たちも、心なしか萎れていた。一日ここへ来なかっただけで、なんだかとんでもない大罪を犯してしまった気になって、両目に涙が溜まっていく。救えるのは僕だけだ。そう思って手を出した。でも、本当は多分、ちがう。
「なあ、どうしたんだよ。花壇なんかもういいって言ってただろ」
追いついた嶋くんは、額の汗を乱暴に拭っていた。ブレザーは教室へ置いてきたのだろう。肩で息をしながら、ワイシャツの袖を捲っている。
「授業始まるって時に教室飛び出しちゃって、思わず追いかけた俺も俺だけどさ。あんまりめちゃくちゃすると、クラスで余計に」
「花が咲いたら、僕が嬉しいんだ」
振り返った僕の顔を見た嶋くんは、一度小さく口を開いたけれど、それ以上言葉を発さなかった。頭上は嫌になるくらいの晴天で、ぐらぐら蜃気楼が見えるくらいなのに、視界では水面が涼しげに波打っていた。
「助けてあげたいとかじゃなくて、もちろん良いことをした気分になりたかったわけでもなくて、ただ僕が、この花の咲くところを見たかったんだよ」
転がるジョウロを拾って、地面から生えている蛇口へ近づく。金属は焼けるように暑かったけれど、ひねればいつも通りに水が出た。
「だってきっと、綺麗な花だから」
湿った部分から色が変わっていって、花壇は徐々に見慣れた風景へ変わっていく。嶋くんは何か、難しそうな顔をしていた。
「飛び出してごめん。ついてきてくれてありがとう。先生には僕から謝るから」
「……なんか俺、お前とはずっと友達でいたいよ」
距離を詰める歩幅はゆっくりだった。僕の隣に並んで、嶋くんがしゃがむ。
「時間はかかると思うけどさ、きっとできると思うんだよな。だから、それまで付き合うよ。幼馴染っていうのもあるけど、お前はぜったい、悪い奴じゃないもん」
手伝う。嶋くんがそう言ってシャベルを手に取る。言葉に驚いていたら、開きっぱなしだった目からまたひとつ、涙が落ちた。
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