越冬に紡ぐ弦

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 越冬。天からの贈り物としては過剰な程の雪が頻りに降り、辺りに出歩く生物は殆ど居ない。  当然、私たちも出歩いて居ない。しかし、私たち二匹を覆って少し余裕がある程度の小さな洞穴の目の前からは決して、希望は見えなかった。  彼は依然として生きていた。彼の話を参考にするならば、キリギリスがこの時期まで生きているのはかなり長寿と言えるのだろうか。しかし、それも長くは続かない。予感では無く、実際に続かない確信があった。  私は、彼と出会い、いつもの演奏場所に入り浸る様になってから群れのルートから外れた草原の、この小さな洞穴に毎回備蓄を溜め続けていた。演奏と話を終えれば、毎日ここに通い詰め、越冬の準備を細々としていたのだ。  残念ながら「私と彼」の社会にはコロニーは存在しないので安全な場所は私が探した限りではここしか無く、アリが風も筒抜けの質素な洞穴で越冬をするという、なんとも常識外れな結果と今なっている。  洞穴をチョイスしたのは、彼から寿命の話を聞いたのがここに備蓄を貯め始めた後という事情もあったが、彼が万が一冬まで生き延びるのでは無いかと言う期待もあっての事だった。そして、その期待は実現した。  しかし、私たち二匹が生き延びる為の食糧がその代わりにそれ相応に必要となり、その食糧がもうじき底をつこうとしていた。そもそも、彼の体調自体最近は芳しく無く、一時期は話が満足に出来ない程に憔悴している時期もあった。  でも、最近はかつての彼のように軽口を叩く様になった。それが私には風前の灯しかり、最後の命を燃やしている様に見えた。  私は彼に身を寄せて、告げる。 「最後に君のヴァイオリンが聴きたい」  彼も私達がもう長く無い事を悟ってか、この時ばかりは軽口を叩かずに弦と弓を手に取り、静かに、だが力強く弾き始めた。  彼の楽器を持つ手が震えている。それは寒さか、それとも気力の限界を迎えているのか。私にはそれを確かめる術はない。そしてそれは恐らくどちらもある、と言えた。  私達は出会ってから、様々な言葉を交わした。そして彼は、多くの曲を私に披露した。そんな共通の記憶が一つの弦に紡がれていくかの様に、ゆっくりと彼の弾く旋律に乗せられて、そして皮肉にも私達は交わす言葉もなく、それを感じ合っている。  演奏は佳境を迎え始める。私達が出会った夏の様に、燃えるようにじりじりと調律が乱れながらも、盛り上がって来ている。  彼はそっと目を閉じた。私も釣られて目を閉じようとする。これで本当に終わりである。しかし、後悔は無い。最後にじんわりと、生の意義を感じながら死ねる事は私にとってとても幸福な様に思えた。  この様に感じる事自体が生物としてのアリとして間違っている事は言うまでもなく、どうにも笑いたくなった。死んだ後は無か、それともまたアリとして生まれるのだろうか。そんな事はどうでも良い。  しかし、私が想像した次の瞬間は訪れる事は無かった。  それどころか私たちのいる洞穴の周りはみるみると晴れ始め、地面は急速に乾き、非現実的な速度で花が咲き始めた。心地良い微風も吹き、彼が弾き続けるヴァイオリンに身を委ねながら私達を祝福する様にゆらゆらと揺れている。    彼は演奏を続ける。閉じた目を開ける事は無く、今までそうして来た様に、弦を弾く。  いつの間にか辺には色とりどりの蝶が集まり、蜜をせっせと集めていた蜂は彼の演奏を聞くと移動する事をやめ、空中に留まって聴いている。  私達の居る洞穴も、元々空いていた入り口に全て吸い込まれたかの様に全てが無くなっていた。  私は、何が起こっているか理解しようとする事はしなかった。ただ、彼の演奏に身を委ねる事だけがこの場において正しい事であると、何より私自身が知っていた為だ。    曲の合間に一瞬の沈黙が流れ、そしてまた弓が引かれ、弦が弾かれた。  眩く光る太陽が、そのヴァイオリンの弦に強く反射して目を照らしたので、私は少し目を閉じた。
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