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「やあ、君達は何をそんなに必死になっているんだい」
彼はある夏の日に、突然そこに現れた。ただの労働者としてあくせく働いている私達を横目に、何やら奇妙な音を放つ道具を動かしながら小馬鹿にする様な口調で話しかけて来た彼に対して、私達働きアリの反応はまちまちだった。
好奇心旺盛な彼女は、彼の持つ「楽器」というものに興味を持ち、興味本位で近付いて、そして夏が過ぎるまでに興味を失った。
正義感の強い彼女は、私達が真面目に働いているにも関わらずこいつは何を馬鹿にしているんだと激しく憤った。
聡明だった彼女は、私達働きアリが属する女性社会のヒエラルキーの頂点に君臨する「女王」にただ献身する事に対するストライキの一環として彼に同調し、数日こそ働くことをやめ、遊び呆けていたものの血に刻まれた「労働者」としての性が彼女を本来の生き方へと引き戻していくかの如く、いつの間にかまた自然とあくせく備蓄を集める様になった。
そしてある彼女は、自身が生まれた環境と生き方に疑問を感じており、彼の奏でる音楽に惹かれ、夏を超えてもずっと彼と日々を過ごした。
それが私だった。
私はそもそも、自身の持つ疑問がどう言った性質のもので、何を求めているのかという原理的な衝動さえ私は分かっていなかった。
女王アリの支配するコロニーの体制に不満がある訳では無いし、「労働者」として生まれた事に疑問さえあれど、それが不幸せな生き方とも感じなかった。現に私達はフェロモンを送り合い、お互いを監視し合い、そして群れに属し支え合ってもいる。それは生物として正しい在り方でもあるし、生き延びる為の手段として適切だと私は思う。働きアリとして生き方を「手段」とされるメスに生まれたことが間違いだったかと言えば、アリの社会ではオスに生まれた方が悲惨な末路を迎えるのでそうとも言えない。私は目の前で同僚がオスの身体を引きちぎり、餌にしている様子を見てきたし、私も実際にやった事がある。
しかし、それに対して残酷だとか、道理に反するという価値観は私たちの生物としてのシステムには組み込まれていない。
私達は、どこまでも最適化されている。だから、私にとってはその真反対に属する彼がどうしようも無く稀有な存在に見えて、そして魅力的だと錯覚したに過ぎない。ただそれだけの事だと思った。しかし、私達が出会ったのは運命だとも錯覚した。
そしてそんな私は毎日彼の演奏を聴き、周りとは別の方向へと歩き、荷物を運ぶ。そんな毎日だった。
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