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10 流火人
満穂から西に一里(3.9km)。
海にほど近い洞窟から、話し声がしていた。
「須佐様、満穂に単身乗り込まれるとは。肝を冷やしました」
須佐は岩に腰を掛け、被っていた布を取った。
「案ずるな。何と言うことはない。名高き満穂の姫君を一目見ておこうと思うてな。変わった事はあったか?」
「いえ、こちらは特に。天原の追手もなく……」
「天原王は執念深き男。私を討ち取ろうと算段しているであろうな。ならば私は王の寝首を掻こうと思う。満穂の巫女姫に、美馬都の陥落を伝えたぞ」
平伏していた従者が答える。
「天原王に油断は禁物。私が須佐様に与することを、気づかれぬよう動くことは容易ではないですがね」
「お主は調子が良いからのぅ。誰にでも愛想を振りまく軽薄者よ。だがその実、誰にも心を開かない」
「須佐様は、竹馬の友の私をお疑いか?」
「天原王がお主を、自分の密使と思うているのが、信頼の証。あの男は自分に歯向かう者の容赦はせぬのでな」
須佐の言葉に従者が立ち上がり、須佐の肩に手を置いた。従者とは言え、須佐の竹馬の友であり、天原の主要氏族の第一子である彼にしかできぬ振る舞いであった。天原王とて、主要氏族の第一子だからこそ彼に疑いを持たない。
置かれた手に顔をしかめ、肩に手をやる須佐を従者が訝しげに見やる。
「肩、如何されましたか?」
「いや、心配無用。子栗鼠に噛じられただけだ」
笑みを浮かべる須佐。普段感情を表さない須佐の表情き、従者は口には出さず「おや? 」と思った。
「流火人、天原王の動きを逐一報告せよ」
須佐に命じられ、流火人と呼ばれた従者は立ち上がった。
「やれやれ。我が主殿はお人使いの荒いことよ」
ニヤリとする須佐が、今度は流火人の肩に手を置く。軽く頭を下げた流火人は、踵を返すと音も立てずに洞窟を出て行き、あっという間に見えなくなった。
須佐は羽織っていた布を置き、肩を顕にする。
そこは、瑞穂が噛んだ歯型の痕がくっきりとついていた。
歯型の痕を撫で、愛おしそうに口づけた。
「天原王、お主には渡さぬ。お主が望む物は全て俺が手にしよう」
呟いた須佐の瞳は、仄暗く煌めいた。
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