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用事でもあったのかな、と思った私の予想を裏切るように、居酒屋ではたわいもない話をしながら食事とお酒を楽しんだ。
もしかして、本当に思いつきで私を驚かせたかっただけなのかな……?
「帰るぞー」
「はーい」
居酒屋を出ると当然のように送っていくと言われ、遠慮することも許されなかった私は、長谷川さんの好意に甘えることにした。
「夜風が気持ち良いな」
「お酒で熱った体には特に気持ち良いですよね」
昼間と違ってだいぶ涼しくなってきた夜道を、風を感じながら並んで歩く。男の人と2人きりで夜の道を歩くなんて、一体いつぶりだろう?
久しぶりにお酒を飲んだこともあって、ふわふわした心地よさを感じながら歩いていると、突然長谷川さんに手首を掴まれて強く引かれた。
「わわっ……」
「そこ犬のフンあるからこっち歩け。踏みたく無いだろ?」
「あ、本当だ。全然気付かなかった……ありがとうございます」
犬のフンなんて全然目に入ってなかった。長谷川さんよく見てるな。
それにしても……この手はいつになったら離してもらえるんだろう?
握られっぱなしになっている自分の手首を見つめてみても、離される気配はない。
「あの、長谷川さん。手……」
「んー? お前足元フラついてて危なっかしいからな。もしかして、手首掴まれてるの逆に歩き辛いか? それならこうして……」
手が離されたと思った瞬間、今度は手の指を絡め取られた。
「へっ……」
「これなら歩きにくく無いだろ?」
「いや、あの……」
恋人でもない、ただの元上司と部下が手を繋いでるって絶対変じゃない……?しかも何で恋人繋ぎ?
うーん……長谷川さんからしたら、私の足元がフラついてて危ないからってだけなんだろうし、私がここで過剰に反応する方が変なのかな?
どうしたものかと考えている間にも、繋いだ手はそのままに歩き続ける。
「――なあ、東野。この前の話なんだけどさ」
「この前の話……?」
「俺の嫁になるっていうの、本気で考えてみないか」
「は……?」
まさかその話がもう一度来ると思ってなくて、固まったまま長谷川さんを見つめ続ける。
「え……いや、あの……何でまたその話を?」
「俺はさ、恋愛感情とまではいかなくても、元々お前の事を好意的には見てたんだ。頑張り屋で真面目で、人には優しいのに自分は甘え下手で。上司だった頃の俺は、そんなお前を無理させないようにっていつも考えてた。今考えれば、ちょっとだけお前を特別扱いしてた気がする」
確かによくフォローはしてもらってたけど……長谷川さんは誰に対しても同じことをしてあげてるように見えてたから、そんな事考えてもらってたなんて知らなかった。
「でも、婚活パーティーで再会して意識が変わった」
「意識が変わった……とは?」
「俺は、お前を女として見てる」
「え……?!」
「あのパーティーで、お前が他の男と上手くいって結婚するのかもって考えたら、凄く嫌な気持ちになったし、取られたくないって思った。あの瞬間、それまで何とも思ってなかった周りの男が、全員俺のライバルになったんだ」
「ライバルって……」
「内心かなり焦ってたんだぞ? お前が年収1000万の男にしか興味が無かったらどうしようか、とか。まあ、お前がそんなことで結婚相手を決めるとは思えなかったし、万が一そうでも、それならそれで、俺が頑張って年収を上げればいいだけかって」
簡単そうに言ってるけど、年収を上げるのって相当大変なことでは……?
「アピールタイムは毎回別の男と話をしてて俺の方は見向きもしないし、最後の発表の時はずっとヒヤヒヤしてた。お前の番号が呼ばれなくて本当にホッとしたんだぞ。まさか、番号を書いてなかったとは思わなかったけどな」
「……すみません」
長谷川さんがそんな事を思ってたなんて、私は当然予想もしてないし知る由もないんだけど、申し訳なく思ってしまった。
「こんな事急に言われても困るってことは分かってる。でも、俺とお前だってあの婚活パーティーで出会った男と女なのは間違いないだろ? お互いに同じ目的で参加してたんだ。元上司と部下という関係はリセットして、新しい関係を築きたい」
「長谷川さん……」
ここまで言ってくれているのに、私はイエスともノーとも答えられずに黙り込んでしまった。
私のことをそんな風に思ってくれているのは素直に嬉しいし、私だって長谷川さんのことは嫌いじゃない。でも、男性としてどうなのかは正直よく分からない。良い人だとは思うけど、元上司っていう感覚がどうしても抜けない。
「やっぱり困ってるよな」
「長谷川さんの気持ちは嬉しいんです。でも、長谷川さんを男性としてまだ見れないというか……」
「まあ、急にはそうだよな。――じゃあ、俺から一つ提案していいか」
「提案ですか?」
「お試しでいいから付き合ってみないか?」
「お試しで?」
「ああ。普通の恋人みたいにデートしたりして一緒に過ごして、俺を男として見られるか確かめて欲しい。期間はそうだな……3ヶ月ぐらいでどうだ?」
長谷川さんとお付き合い……やっぱりまだ想像が出来ない。
「仕事での俺しか知らないから、余計考えるのが難しいと思うんだ。だから、プライベートの――素の俺を知って欲しい。俺もお前のことをもっと知りたいしな。どうだ?」
確かに、私が知っているのは上司としての長谷川さんだけ。プライベートでの長谷川さんがどんな人なのかなんて、全然知らない。
「もちろん、お前の気持ちが固まらない間は手は出さないし、お前がどうしても俺とは考えられないってことなら、その時はスッパリ諦めるって約束する」
お試しか……試すなんて失礼だとも思うけど、自分の気持ちが分からなくてイエスともノーとも答えられないのなら、試してみるのも有りなのかな?
ここまで言ってくれてる長谷川さんに、よく分からないまま答える方が失礼だよね。
「――分かりました。お試しで、よろしくお願いします」
「そうか……! 良かった……にべもなく断られるんじゃないかってちょっと怖かった」
「そんなことしませんよ。長谷川さんの気持ちは嬉しいって、本当に思ってますから」
それは、本当に素直な気持ち。
「――そうだ。先に言っておくが、お試しとはいえ、俺はお前への気持ちを隠すつもりはないからな。気持ちを伝えるのも遠慮はしないし、手加減だってしないから覚悟しといて」
そう爽やかに言い切った長谷川さんの言葉を、翌日には理解することになるとは、この時の私は思いもしていなかった。
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