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「うーん……後もう少しで終わりそうなんだけど……」
時計を見ると、定時はもうとっくに過ぎている。週末だしキリの良いところまで……と思っていたら、結局残業になってしまった。でも、ここまできたらやり切ってから帰りたい。
再びパソコンに向かい合った時、ふと、朝の長谷川さんの言葉が頭を過ぎった。
遅くなるなら連絡しろって言われたけど……言うほど遅いわけでもないし、わざわざ迎えに来てもらうのもね。
そう考えていたら、タイミングが良いのか悪いのか、長谷川さんからの着信が入った。
「……はい」
「お疲れ。もう家に帰ってるか?」
「えっと……」
どうしよう……まだ20時過ぎだし、言わなくてもバレないよね……?
「さっき帰ってきたところです」
迎えに来てもらうのはやっぱり申し訳ない――その気持ちの方が勝って、後ろめたさを感じながらも変に思われないように答えた。
「――そうか。それならいいんだ。ゆっくり休めよ」
そう言って電話が切れ、思わず溜め息がこぼれ落ちる。
「嘘、ついちゃった……」
罪悪感が徐々に湧き上がってくる。
とにかく早く終わらせて帰ろう。じゃないと、今度会った時に長谷川さんに変な態度取っちゃいそう。
一つ深呼吸をしてから、もう一度モニターに向かい合う。集中して作業を続けたら30分程で終了し、私は思わずホッと息を吐いた。
まだ21時前。大丈夫大丈夫、まだそんなに遅い時間じゃない。
つい心の中で誰かに言い訳をしてしまいながら、後片付けをサッと終わらせる。
バッグを肩にかけてエレベーターに乗ったところで、さっきの電話にふと違和感を覚えた。
そういえば、朝に比べてなんだかあっさりしていたような……?
気のせいかな?でも……もしかしたら、忙しいのに私が帰ったか確認するために電話をかけてきてくれた……?
そう考えたら、嘘をついてしまったことへの罪悪感が増してくる。でも、だとしたら尚更嘘をついて良かったとも思えた。もし正直に残業してるなんて言ったら、忙しいのに本当に迎えに来ていたかもしれない。長谷川さんなら、それが有り得る。
嘘を吐いたことを正当化したい気持ちと罪悪感に苛まれながら、守衛室の横を通り過ぎる。最近複雑な感情を抱えることが多いな……と、どんよりしながら会社を出たら、すぐ右横から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「――やっぱり出てきた」
「長谷川さん……?! 何でここに……」
そこにいたのは他でもない長谷川さんで、私は驚きを隠せない。
「何で、じゃないだろ」
苦笑しながら近付いてきた長谷川さんが、私の頭にポンと手を置く。
「電話の声聞いて、これは絶対帰ってないなって思ったから迎えに来たんだよ。どうせお前のことだから、態々迎えに来てもらうのは、とか思って嘘ついたんだろ?」
「はい……ごめんなさい……」
考えていたことまで全部バレていて、叱られている子供のように項垂れる。
「――なあ、俺ともう一個約束しようか」
約束?と顔を上げて長谷川さんを見ると、思いがけず優しい表情で見つめられた。
「これからは、俺に対して申し訳ないと思って遠慮しないこと」
「でも……」
「俺だって、無理な時は無理って言う。そうじゃない時は、遠慮なんてせずに甘えて欲しい。それにな、お前は俺に申し訳ないと思うのかもしれないけど、俺からしたら役得なんだぞ?」
「役得?」
「迎えに来て安全に送り届けるのを口実に、お前に会えるだろ?」
したり顔で笑う長谷川さんに、私も思わず笑ってしまう。
「それ、役得って言えるんですか?」
「役得に決まってるだろ。好きな女に――恋人に会える時間が増えるんだから」
急に真剣な目で見つめられて、心臓が大きく跳ねた。
「だから、今度から遠慮して嘘をつくなんてしないこと。お前のことだから、嘘ついたことにも罪悪感持ちそうだしな」
元上司だからなのか、私の性格をきちんと把握しているらしい長谷川さんには敵いそうにない。
「約束出来るよな?」
「……はい。なるべく頑張ります」
「そこは絶対であって欲しいもんだが、急に性格は変えられないか」
苦笑しながら、置きっ放しだった手で髪を梳くように撫でられる。その感触が、擽ったいのに心地良い。
「帰る前に飯でも行くか。どうせ食べてないだろ?」
「はい」
この時間からなら何処がいいかな、と2人で歩きながら相談する時、今までと少し違う距離感に近付いている気がした。
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