刑事の涙

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刑事の涙

    支給されているチーフスペシャルの銃口を向け、坂口(さかぐち)裕翔(ゆうと)はじっとりと頬を伝う汗を上腕部に擦り付けるようにして拭った。 「銃を下ろしてくださいっ」  相手は、同じ刑事だ。刑事が、弁護士を盾にしてその首筋にグロックの銃口を貼り付かせている。  裕翔はつい半年前に、難関の登用試験をパスして警視庁捜査一課強行犯第2係に配属になったばかりの、駆け出しの刑事だ。臨場要請に従って所轄に出向いたところで、まだ電話番と運転手以外、役に立ってはいない。このチーフスペシャルも、警察学校以来、引き金を引いたことなどまるでないのだ。 「坂口……まさか、こういう結末になるとはな」  俳優のような2枚目面を情けなく歪ませている弁護士を盾にしているのは、ベテランの刑事である。  穂積(ほづみ)和俊(かずとし)、36歳、警部補。元は捜査一課の強行犯の刑事だったが、2年前に妻が強盗に殴られて植物状態になってからというもの、比較的稼働環境の穏やかな所轄に移っていた。  しかし、その妻も昨年には亡くなり、先月の祥月命日に墓参りに訪れた軽井沢の白糸滝で、偶然の悪戯か、裕翔と遭遇したのだ。  妻が亡くなって一年経った祥月命日、穂積は妻の実家のある軽井沢に墓参りがてら訪れていた。急速に年老いた義両親とのぎこちない昼食の後、北軽井沢から旧軽井沢へ抜けると途路にある『白糸の滝』を訪れた。涼しげな岩壁から幾筋もの滝が正に白糸のように滝壺に流れ落ちていく様子を見つめながら、穂積は妻を偲んだ。自慢の長い黒髪を背中に垂らした華奢な後ろ姿を岩壁に映し、その幻影に手を伸ばし、自分も間も無く逝くからと、泣いたのだ。  涙を隠すように顔を伏せて遊歩道を駐車場へと戻る時、幽鬼のような表情の若者が滝へと歩いてきた。そして、穂積の前で木の根に足を取られ、まんまと躓いた時、咄嗟に穂積がその腕を掴んで転ばぬように支えたのであった。 「あ……すみません」 「いえ……気をつけて」 「有難うございます」  泣きそうな顔で礼を言った若者の顔が何故か穂積の脳裏に強烈に刻まれた。  後に穂積が所属する立川署に本庁の捜査一課の連中が乗り込んできた中に、あの泣きそうな顔があった。まだ駆け出しの新人だという若者の名は、坂口裕翔と言い、毎日電話番と弁当の手配やら車両の手配をやらされていた。  数日後、逮捕した被疑者の送致を裕翔と穂積が担当することとなり、仕事を終えた後、穂積は何となく裕翔を飲みに誘ったのだった。 「君とは不思議な縁だね」  立川の居酒屋で瓶ビールを分け合うように注ぎ、穂積はそう呟いた。 「俺も、あの時の人だと、すぐに気付きました……ここの帳場は今日で終わりますが、どうせ明日からも別の帳場で電話番です」 「俺にもそういう時はあった。今は辛抱して、先輩達のやり方をよく見ておくと良い。君はここでも腐らずよくやっていた、きっとモノになる」  帳場に入って初めて掛けてもらった先輩刑事からの優しい言葉に、裕翔はグッと歯を食いしばって涙を堪えた。  穂積は黙って、裕翔のグラスにビールを注いだのだった。  刑事らしからぬスマートな出で立ち、かつては捜一のエースと呼ばれた凄腕だという穂積がまとう孤高な佇まいに、裕翔は憧れを抱いたのだった。  それが今、彼は鬼の形相で人質を取り、裕翔に対峙しているではないか。 「山川拓也の罪状は、もう全て明らかになりました。だから、その手を離してください。復讐してどうなるんです、あなた刑事でしょ! 」 「だからだよ。刑事なのに、妻を守ってやれなかった……こんな男から」  穂積が羽交い締めにしているのは、自生党幹事長・山川伝蔵の次男で山川拓也。派手でチャラいほどの容姿を武器に、弁護士としてメディアを沸かせ、時代の寵児のように振る舞う勘違い男……少なくとも裕翔はそう解釈している。 「拓也と秘書が同乗した車が、軽井沢で轢き逃げを起こしている場面の動画は、こっちも手に入れました。画像分析の結果、この男がハンドルを握っていたことが判明してます、罪は明らかです」 「一度は父親の力でうやむやにした男だぞ! 」  その時、たまたま軽井沢の実家に帰省して、雨の中をコンビニまで買い物に出た穂積の妻は、その轢き逃げの現場を目撃したのだった。だが、雨で運転者ははっきりせず、証言としては弱かったのだ。だが、山川拓也の方は、顔を見られたと思い込んでいて、たまたま都内で妻を見かけ、穂積の留守を狙って自宅に忍び込み、妻の頭にハンマーを振り下ろしたのだ。 「た、助けてくれ……そうだよ、俺がやった、俺がやったんだよ!! 」  男前を売りにした拓也が、鼻水でグショグショになっている顔を歪ませ、裕翔に罪の告白を繰り返した。 「穂積さん、これで十分だろ、終わりにしよう」  ここは山川拓也が所属する弁護士事務所が入っている雑居ビルの屋上。裕翔の背後にも、遥か下の地面にも、応援の刑事達が集まっている。 「……妻は、こいつの顔なんか覚えていなかったんだ。それなのにこいつは、妻が自分の顔を覚えていると勝手に思い込み……丸1年も、妻は植物状態で苦しんだ……死んだ日も、こいつはテレビの中で笑っていたんだよ」  グロックの安全装置は外れている。裕翔のも、だ。警告の一発は、既に空に向かって撃っている。次は穂積の右肘か、頭か、足か……インカムからは、SITが配置についた様子が聞こえてくる。穂積も分かっているはずだ。 「ダメだ、下ろして、銃を下ろして!! 」  穂積が、殺気を昇華した笑顔で裕翔に小さく頷き、引き金を引く指に力を込めた。 「穂積さんっ! !」  インカムに、現場責任者が発砲を許可する叫び声が届く。  裕翔はチーフスペシャルの引き金を引いた。  銃口をだらりと下ろしたままの裕翔の脇を、刑事に両脇を抱えられた山川が項垂れた姿で引き摺られていった。  目の前では、右肩口に銃弾を受けた穂積が、仰向けに転がっていた。 「穂積さん……」  まだ、息はある。ゴフッと咳き込んだ穂積の口から、血の泡が吹き出した。  よろよろと裕翔が近付くと、転がったままの穂積が、ニッコリと、無駄に爽やかな笑顔を向けた。 「いい腕だな……大丈夫、君の銃弾で死ぬわけじゃない」 「でも……」 「君はやるべきことをやった……君が、苦しむ理由は、何もない」  裕翔は銃を置き、穂積の肩口をネクタイで止血した。無駄かもしれないが、でも、繋げられるのなら、命を繋げたい、その一念であった。 「有難うな……引導を渡してくれるのが君で、良かった……」  穂積の体が、既に全身が癌に侵されていることも、裕翔は知っていた。時間がない……焦るようにして山川を追い詰め、土壇場で全てを明るみにした。穂積の勝ちだ。勝ち負けがあるのだとしたら、穂積の勝ちだ。 「穂積さん、俺こそ、あの滝で……有難うございました」 「今かよ……」 「俺、あそこで尻餅ついていたら、そのまま無様に泣いていました。母の葬式のために軽井沢に帰省してて……滝壺で泣くつもりだったんです」 「そうか……俺も、あそこで泣いた帰りだったんだよ。だからか……君の顔が、中々忘れられなかった……同じだったんだな、俺達」 「奇遇ですね」 「ああ……奇遇、というより、運命の交差、だな」 「穂積さん、俺……」 「坂口……刑事、やめるなよ……」  穂積が目を閉じた。  救急隊に運ばれていく穂積を見送った後、裕翔は目の前に出来上がっている血溜まりを見つめていた。  あの5秒にも満たない交差で、穂積も裕翔も、互いに大切な者の幻影を滝の中に映さなくては立っていられないような喪失感を、嗅ぎ取ったのだ。  まるで運命が、穂積の引導役として裕翔に白羽の矢を立てたかのように……その矢の意思に逆らうべくもなく、こうして裕翔は穂積を撃った。  監察下に置かれた2日後、穂積は病院で静かに息を引き取った。死因は、ガンの全身転移による心不全。肩口の銃弾が直接的な死因ではないと、証明された。    半年後、裕翔は軽井沢の風光明媚な丘の上を訪れていた。 「穂積さん、明日から俺、捜一の強行犯3係です。刑事、続けますから」  穂積と妻が眠る墓前に花を添え、裕翔は静かに手を合わせたのであった。                   交差  〜了〜
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