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そんな父のことをふと頭に浮かべたところで、母も言いにくそうに、小さく呟く。
「お父さんに、会っていくでしょう?」
「……うん。そのつもり。明日にでも」
「わかった。そう言っておくね」
「お母さん、夜勤もいれているみたいだけど根を詰めないでね。なにかあれば、私の仕送りちゃんと使ってよ。足りないなら遠慮せずに言って。お母さんが倒れるなんてことのほうが嫌だから」
「大丈夫だって。そんなことしたら、ハイブランドの靴、買えなくなっちゃうわよ~」
「靴より大事だからって意味なんだけど!」
「はいはい。ここのお店、けっこう時給がいいこと知ってるでしょ。大丈夫。ほんとうに困ったら泣きつけるのは乃愛しかいないから、その時はよろしくね~。じゃあ、お客様、ごゆっくり――。戻ります」
あっという間に気易い母親の顔から、ショップクルーの凜とした笑顔に戻ってしまった。
母を心配しての申し出も、いつもこうして跳ねられる。
ブランド靴は大好きで欲しいけれど、だからとて母に必要以上の苦労はしてほしくない。これでも乃愛は安定した給与を得ているのだから頼って欲しい。
それでも楽しそうな笑顔を浮かべて、厨房に戻っていく母。カウンターの向こうに消える前に、もう一度だけ振り返って乃愛に手を振ってくれる。笑顔で――。
娘を心配させまいとしている笑顔としか思えず。でもいまの母が、定職を持たなくなった夫と二人暮らしの日々を過ごしている中で、どれだけの不安を持っているかもわからずじまいだった。ただただ、母は変わらない笑顔でいる。父が相棒を亡くして軍人を辞めても、日雇いの仕事だけで過ごしていても、変わらずだ――。母に不安はないのだろうかと、乃愛はずっと案じているのに、母の本心を推し量れないまま数年が過ぎていた。
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