壱 赤い痣

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 香夜を初めて見たのは、俺が十の時だった。  母の実家は旧家と言われた家で、広い敷地に大きな屋敷が建っていた。屋敷の裏にも庭があり、裏庭のすぐ後ろには山がある。山際には湧き水が流れ込んでいるのか、自然に出来た広い池があった。どこまで山裾に池が広がっているのか幼い俺にはわからない。何匹もの錦鯉が放たれ、オレンジや金の鮮やかな背をきらめかせている。  鯉が水をはねる様子をしゃがみこんで眺めていると、微かに甘い香りがした。後ろを振り返れば、いつからいたのか、色の白いほっそりした子どもが立っている。自分と同じくらいだろうか。大きな瞳に肩までの艶やかな黒髪。ふっくらした赤い唇。見たこともないほど綺麗な子だった。  男なんだろうか、女なんだろうか。その綺麗な子が俺に話しかけてきた。 「どこから来た?」 「東京から。あんた、誰?」 「こうや。香る、に夜と書く」 「香る、っていい匂いのこと?」  俺が聞くと、ふわりと笑う。笑った途端に甘い香りが辺りに漂って、胸がどきんと鳴った。 「俺は壮真」 「そうま?」 「うん。壮快のそう、に、まことって字。すごく元気がいいって意味だって母さんが言ってた。ねえ、あんた女なの?」 「いや、男だ」  ものすごく驚いた。こんな綺麗な男がいるんだ。今まで見たことがない。|香夜は裏山を指さした。 「山の上に行ってみないか?」 「行く!」  香夜の言葉にすぐに頷いた。俺は飽きていたのだ。夏休みで母の実家に来たけれど、大人たちは自分たちの話に夢中で、子どものことなんか目に入っていない。いつも俺の相手をしてくれる従兄(いとこ)の一家はまだ来ていなかった。  香夜が俺の手を取ると、ぱしゃん、と大きな水音がした。今まで静かだった池の水面が急に波打つ。鯉の背の金がきらめいて、盛んに水の中を泳ぎ回る。 「なんだろ、お腹がすいてるのかな」  俺は屋敷の裏にある作業小屋に入って、鯉の餌が入っている缶を掴んで戻ってきた。香夜がじっと水面を見つめていた。 「鯉、まだ暴れてた?」 「いや、もう静かになった」  俺が餌を投げても、鯉は水面には浮かび上がってこなかった。
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