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調理室には焼き魚の煙が充満している。
大手コンビニチェーンとの共同開発で、北斗水産高校は鯖を使った弁当を試作していた。安形智史は一年生調理チームのリーダーだ。焼き上がった鯖を一口食べると、「今度はしょっぱいな」と言って、メンバー一同をげんなりさせた。
「いや、もう十分おいしいって!」
「そうそう、いい感じ。最高!」
「正直、さっきのとどう違うかもわかんねぇ」
智史はもう一口食べた。「うーん」と唸る。
「炊き込みご飯にしてみようか」
言うと、メンバー全員がギョッと目を見開いた。冗談じゃない、と顔に書いてある。
「今更メニュー変更なんて正気じゃないぜ。脇役の惣菜だって変えなきゃなんないだろ」
「試作期間はまだあるじゃないか。もう少し改良してみよう」
智史が静かに言うと、メンバーはしぶしぶ持ち場に戻った。皆、智史を慕っているのだ。包丁も扱ったことのないような学生が、智史がリーダーならと調理チームに加わった。智史は昔から人の輪の中心にいる。
結局その後、二時間以上も調理室に籠り、智史の制服には焼き魚の臭いがこびりついた。これで電車に乗るのは迷惑だろうと、一駅分を歩いて帰る。大した距離ではない。電車で五分が徒歩三十分になるだけだ。智史は、田んぼに囲まれた地元の風景が好きだった。
街灯もないので足元が見えない。その分星が綺麗に見えた。時折立ち止まっては夜空を見上げ、すうっと息を吸って焼き魚の香りを嗅ぐ。振り出しに戻ってしまったけれど、美味しい弁当ができるという根拠のない確信に口元が綻んだ。
その笑みも、背後から「ギャハハッ」という騒がしい声によって、引っ込んだ。智史は先を急いだ。見なくても、赤丸工業高校の学生だと分かる。彼らは野蛮だ。近所のコンビニや本屋は、彼らの万引きによって潰された。
足音が迫ってくる。智史は速度を上げた。それに合わせて、背後の足音も加速する。間違いない。カッパ狩りだ。智史は両手を大きく振った。「待てコラッ!」と背中に罵声を浴び、汗が噴き出した。次の瞬間には地面に突っ伏していた。
「エロガッパがっ! 目の前トロトロ歩いてんじゃねえやっ!」
酷い言い草だ。智史は両手で頭を守りながら、嵐のような暴力をジッと耐えた。
「つかこいつ臭くね」
「ほんとだ臭え。おうえっ」
「ガハハッ、くっせえ! お前らの水槽汚ねえもんなあ!」
彼らは北斗水産高校の学生をカッパ、学舎を水槽と呼ぶ。
「かはっ」
腹を蹴られ、うずくまった拍子にうしろポケットから財布が抜けた。慌てて手を伸ばすが、傷だらけのローファーが近づいてきて、先を越された。
「あっ……」
人の財布を勝手に物色して、ソイツは「しけてんな」と吐き捨てた。
顔を上げると目が合った。パーツの全てが適正な位置に収まった、目尻の尖った男前。赤工生にしては珍しい黒髪だ。
一秒、二秒……こちらからは絶対目を逸らすものかと意地を張っていたら、「ほらよ」と額に財布を落とされた。リーダー格なのか、そいつが去っていくと、他の仲間も後に続いた。途端に身体がギシギシと痛み出す。
くそっ、くそっ!
智史は地面に落ちた財布を掴むなり、開いた。幸い、学生証やカード類は抜き取られていない。けれど財布の中にはばあちゃんに貰った大金が入っていたはずだ。最悪だ。二万四千円も入れていた俺がバカだってのか?
「え……?」
札入れを見て、智史は目を瞠った。英世が減っている。けれど諭吉が二人いた。どういうことだ? 諭吉を残して、英世だけ連れ去ったのか?
座り込んだまま振り返る。遠ざかる四人組。一人だけ姿勢のいい、黒髪の男を目に留める。今すぐ追いかけて、これはどういうことだと問い詰めたい衝動に駆られた。なんで全部抜かなかった。あんたお人好しか?
四千円抜かれたのに、悔しい気持ちは消えていた。代わりに、どう対処したら良いのかわからない、歯痒いような、もやもやした気持ちが腹のなで燻り続けた。
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