兄弟

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兄弟

「丸井水道局」と刺繍がされたグレーの作業着を着て、落合達也は兄のバンに乗り込んだ。「ター坊、悪いな」とハンドルを握る兄、秀也が言う。四つ上の秀也は二十二歳。赤丸工業高校を卒業後、一旦は地元の部品工場に就職したものの、三ヶ月で退職。その後、オービーが社長を務めるインチキ企業に就職した。 「ター坊は直感タイプっつうか、運がいいっつうか、なんかター坊がいてくれるだけでオレは心強いんよ。この前だってター坊のおかげで売上二十万だ。感謝してるぜえ」  肩をバシバシと叩かれ、達也は身を竦めた。本当は詐欺の片棒など担ぎたくない。けれど断ると、兄は決まってこう言うのだ。 「一日の売り上げが十万に届かないと吊し上げだ。全裸で首から『給料泥棒』ってフダ、下げなきゃなんねえ。そんでベロで床掃除。ター坊、にいちゃんがそんな目ェ遭うの、嫌だろう? なあに、ター坊は車乗ってるだけでいいさ」  嘘ばっかりだ。兄は達也にインターホンを押させ、点検の必要性や浄水器の売り込みなど、面倒なことを全て達也に押し付ける。そのくせ、「あの婆さんからならあと五万は搾り取れた」などと文句を言うのだ。 「ようし、行くぞター坊。無理はしなくていい。通報されんのが一番厄介だからな。コツコツ行こうぜ、コツコツと」  それができなかったから詐欺師なんかやってるんだろ、と腹に毒吐き、達也は兄に続いてバンを降りた。  ムン、と湿った空気が肌を不快にさせた。六月下旬、山地に囲まれた濃尾平野は熱帯夜が続いている。少し歩いただけでじっとりと背中に汗が浮かんだ。  いかにも年寄りが一人で住んでいそうな、陰鬱とした木造家屋。「ター坊」と兄に急かされ、達也は蜘蛛の巣のついたインターホンを押した。応答がない。もう一度押すと、「なっちゃん?」と背後からシワがれた声が掛かった。  振り返ると、腰の曲がった老婆が立っていた。 「こんにちは、丸井水道局の者です。水質検査に参りました」  老婆は「はえ?」と耳を向けた。  達也は同じことを大声で言ったが、それでも伝わらない。 「ター坊、こいつは大当たりだ。なんでもいいから家ん中上がって、勝手に浄水器取り付けちまえ」  兄が急かしてくる。 「水質検査、しますから、ドア、開けてください!」  達也は大声で言った。老婆は聞こえていたのかいないのか、ドアを開けて入っていく。達也はその後に続いた。三和土に上がってしまえばこっちのもんだ。痴呆も入ってそうだから、七万くらいふっかけてもイケそうだ。靴を脱ぎつつ考えていると、見慣れたローファーを見つけてギョッとした。中敷の赤い、これは達也の通う、赤丸工業高校の指定靴だ。一瞬で血の気が引いた。家を飛び出し、バンへ走った。  兄はトランクの中を物色している。売りつける浄水器を選んでいるのだ。 「にいちゃん、ここはやめとこうっ!」 「どうしたター坊、しくじったか」 「赤工のローファーがあった! 年寄りの一人暮らしじゃねえよっ!」 「だったらどうした。今は婆さん一人だろう。ほら、プレミア浄水器三十万。行ってこい!」 「いや、だからいるんだって!」 「ター坊、にいちゃんに恥をかかせないでくれ。売り上げで貢献しねえと、俺を誘ってくれた先輩に顔が立たないだろう。チャイム鳴らしても出てこなかったんだ。どうせ出てきやしねえよ」 「でも……」 「カナちゃんの誕生日って来週だっけ」  達也の彼女の名前を出してきた。隣町の高校に通っているカナちゃんとは付き合って二週間。 「そうだけど……」 「そりゃあナイスなプレゼントしねえとなあ」  カナは何もいらないと言っている。まだ付き合って日も浅いし……と謙虚な彼女には、とびきりイイモンを送りたい。なんせ初めてできた恋人だ。 「半分やるか。ここの売り上げ」  兄は口角をクイっと上げた。 「半分も?」 「おう。プレゼントの足しにすればいい。ター坊、お前の卒業式が決まったな」  顔を赤くする達也のみぞおちを、兄はヘイヘイと小突いてくる。 「大人の階段上がろうぜ」  達也は帽子を深く被った。長めの茶髪を隠してメガネを掛けた自分は、学校の姿とは別人だ。それに兄の言う通り、チャイムを押しても出なかったのだ。赤工の学生とカチあうことはない。そう言い聞かせて、引き返した。  ガラッと玄関を開け、恐る恐る中へ入る。老婆の姿はない。とりあえず台所へ行って、ちゃっちゃと浄水器を取り付けてしまおう。あとは兄に丸投げすればいい。よく磨かれた廊下を進む。こういう家にしては、珍しく清潔にされている。 「ぅ……んっ」  人の気配にドキリと足を止めた。 「はあっ……あん」  達也は思わず手で口を覆った。まさか、ふすまの奥から聞こえるこの声は…… 「ああっ……いたっ……あ、ぁっ……やめっ……」  顔がボッと熱くなった。衣擦れの音が生々しい。 「いやっ……やだっ、それ……やっ」  淫らな声の中に微かに、男の甘い響きを見つけた。 「お前は痛くしないといけない淫乱だろう。ほら、ちゃんと足を開きなさい」 「や、兄さっ……んッ」  口を覆う手がワナワナと震え出した。嘘だろう?  「ああッ……やっ、いっちゃ……あっ……ん」  達也は慌ててその場を逃げた。浄水器を持ったまま玄関へ行く。靴に足を差し込むが、少し大きい。作業靴で来たことを思い出し、慌てて靴を履き替える。けれど視線は赤工のローファーから離れない。中敷が赤いのは兄の代までだ。達也は兄からのお下がりを履いているから、同級生の靴と間違えたのは初めてだ。一体誰の靴だろう。よく見れば、雑な使い方をしているのだろう、かなり傷んでいる。手を伸ばし、引っ込めた。工具箱から六角レンチを取り出す。  チラと背後を見る。誰にも見られていないことを確認し、先端でローファーの側面に傷をつけた。すでに傷だらけだが、目印のために、ちょっとだけ。それでも罪悪感と恐怖でブワッと汗が噴き出した。
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