199人が本棚に入れています
本棚に追加
自分の名前だと認識するまでには、少し時間を要した。
え…。
確かに、後ろに立っている男性がそう言ったのだ。
透子さん、と。
透子は、眉をひそめながら、振り返る。
知らない人、のはずだ。
それなのになぜ、自分の名前を呼んだのか。
すると男性は、ニット帽を少し持ち上げ、マスクを顎まで下ろした。
「あ…っ。」
わかりやすく、驚いた顔をしたに違いない。まさかこんな所で会うとは、1ミリも想像していなかった。
…ユウト。
目の前の、入院着を着て松葉杖をついている男性は、確かにユウトで。
その薄茶色の瞳も、綺麗なアーチ型の眉毛も、すっと高い鼻も、間違いなくユウトだった。
「え…なんで…。」
そう声に出して、愚問だったと気づく。
「あ…そっか…骨折…。」
透子の言葉に、ユウトは目を丸くした。
「知ってたの?」
「友達が…大晦日のライブに参戦してて…。教えてくれた。」
足元に目をやると、どうやら左足首を骨折したらしい。ふくらはぎの下からつま先の辺りまで、ギプスで固定されている。
しかしまさか、同じ病院に入院していたとは…。
「ホント、間抜けだよね。」
ユウトが恥ずかしそうに言う。
「Break Outの時にテンション上がりすぎて、ステージから落ちちゃったんだ。最初は捻挫だと思って、応急処置した後に戻ったんだけど…実は骨折してたっていう話。」
ははっという乾いた笑い声が、痛々しい。
「…大変、だったね。」
何と声を掛けたら良いのだろう。
元推し、元彼氏、に。
ユウトの顔を見ていると、二人で過ごした楽しかった時間を思い出してしまう。別れ話をした時の、歪んだ表情も。
息が詰まりそうだ。
エレベーターの動きが、止まっているのではないかと思うほどゆっくりに感じる。
そこでユウトは、不思議そうに首を傾げた。
「…透子さんは、何で?」
何でここにいるのかと聞きたいのだと思った。一瞬ためらったが、もうそんな必要はないのだと気づく。
「息子が入院することになって。今は、下のコンビニに買い物に行くところ。」
透子は淡々と答えた。
ユウトの目が、丸く見開かれる。
「えっ…入院て…どこか悪いの?」
「風邪こじらせちゃって、肺炎を起こしたの。そこまで重くはないらしいんだけど。」
そうなんだ…と、ユウトがため息混じりに呟いた。
その時ようやく、ポーンという軽快な音とともにエレベーターが2階に着いた。
ゆっくりと扉が開き、透子は体を壁に寄せて『開』ボタンを押した。
「俺…これから検査、なんだ…。」
「…そう。」
2階は、外来診療のフロアだ。いくつかの処置室や検査室も設けられており、入院患者もこのフロアで検査を受けることになる。
午前中、瑞樹もここでレントゲンを撮り、医師の診察を受けた。
エレベーターの外からは、診察を待つ患者の話し声や看護師の声、人々や機材が行き交う物音が聞こえてくる。
上階の入院フロアにはない、喧騒。
何か、言わなければいけないだろうか。
またね?
元気でね?
お大事に?
どんな言葉も、今のユウトとの関係にはしっくりこない。
考えあぐねる透子の横を、松葉杖をついたユウトがぎこちなく通り過ぎる。そしてエレベーターを降りると、ふいに振り返った。
その瞳と目が合った。
瞳の奥に、柔らかい光のようなものを感じる。
ユウトの頬が紅潮している。
「また…会える?」
そう、聞こえたような。
「……え?」
今、なんて?
それを確認する間もなく、エレベーターの扉が閉まっていく。
完全に閉じる直前に見えたのは、はにかんだように笑うユウトの顔だった。
最初のコメントを投稿しよう!