偶然か必然か

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自分の名前だと認識するまでには、少し時間を要した。 え…。 確かに、後ろに立っている男性がそう言ったのだ。 透子さん、と。 透子は、眉をひそめながら、振り返る。 知らない人、のはずだ。 それなのになぜ、自分の名前を呼んだのか。 すると男性は、ニット帽を少し持ち上げ、マスクを顎まで下ろした。 「あ…っ。」 わかりやすく、驚いた顔をしたに違いない。まさかこんな所で会うとは、1ミリも想像していなかった。 …ユウト。 目の前の、入院着を着て松葉杖をついている男性は、確かにユウトで。 その薄茶色の瞳も、綺麗なアーチ型の眉毛も、すっと高い鼻も、間違いなくユウトだった。 「え…なんで…。」 そう声に出して、愚問だったと気づく。 「あ…そっか…骨折…。」 透子の言葉に、ユウトは目を丸くした。 「知ってたの?」 「友達が…大晦日のライブに参戦してて…。教えてくれた。」 足元に目をやると、どうやら左足首を骨折したらしい。ふくらはぎの下からつま先の辺りまで、ギプスで固定されている。 しかしまさか、同じ病院に入院していたとは…。 「ホント、間抜けだよね。」 ユウトが恥ずかしそうに言う。 「Break Out(ブレイクアウト)の時にテンション上がりすぎて、ステージから落ちちゃったんだ。最初は捻挫だと思って、応急処置した後に戻ったんだけど…実は骨折してたっていう話。」 ははっという乾いた笑い声が、痛々しい。 「…大変、だったね。」 何と声を掛けたら良いのだろう。 元推し、元彼氏、に。 ユウトの顔を見ていると、二人で過ごした楽しかった時間を思い出してしまう。別れ話をした時の、歪んだ表情も。 息が詰まりそうだ。 エレベーターの動きが、止まっているのではないかと思うほどゆっくりに感じる。 そこでユウトは、不思議そうに首を傾げた。 「…透子さんは、何で?」 何でここにいるのかと聞きたいのだと思った。一瞬ためらったが、もうそんな必要はないのだと気づく。 「息子が入院することになって。今は、下のコンビニに買い物に行くところ。」 透子は淡々と答えた。 ユウトの目が、丸く見開かれる。 「えっ…入院て…どこか悪いの?」 「風邪こじらせちゃって、肺炎を起こしたの。そこまで重くはないらしいんだけど。」 そうなんだ…と、ユウトがため息混じりに呟いた。 その時ようやく、ポーンという軽快な音とともにエレベーターが2階に着いた。 ゆっくりと扉が開き、透子は体を壁に寄せて『開』ボタンを押した。 「俺…これから検査、なんだ…。」 「…そう。」 2階は、外来診療のフロアだ。いくつかの処置室や検査室も設けられており、入院患者もこのフロアで検査を受けることになる。 午前中、瑞樹もここでレントゲンを撮り、医師の診察を受けた。 エレベーターの外からは、診察を待つ患者の話し声や看護師の声、人々や機材が行き交う物音が聞こえてくる。 上階の入院フロアにはない、喧騒。 何か、言わなければいけないだろうか。 またね? 元気でね? お大事に? どんな言葉も、今のユウトとの関係にはしっくりこない。 考えあぐねる透子の横を、松葉杖をついたユウトがぎこちなく通り過ぎる。そしてエレベーターを降りると、ふいに振り返った。 その瞳と目が合った。 瞳の奥に、柔らかい光のようなものを感じる。 ユウトの頬が紅潮している。 「また…会える?」 そう、聞こえたような。 「……え?」 今、なんて? それを確認する間もなく、エレベーターの扉が閉まっていく。 完全に閉じる直前に見えたのは、はにかんだように笑うユウトの顔だった。
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