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「手伝うよ。」
そう言ってキッチンに入って来ると、ユウトは透子の横に立った。ラックに掛けてあった布巾を取り、手を出してくる。
洗った皿を拭いてくれるつもりらしいが、透子がひどく戸惑っていることには気づいていないようだ。
まるでいつものことかのように、ユウトは平然とそこにいる。
甘い香りが透子を包む。
くらくらして、懐かしいような甘酸っぱいような感情に、胸がキュッと苦しくなる。
「皿、ちょうだい。」
「あ…うん。」
透子が洗った皿をユウトが受け取り、拭いた後に食器棚へと戻す。ただそれだけの単純作業。
特に言葉を交わすことはなかったが、柔らかい空気の流れを感じた。
そんな中で「あっ…」と透子が声を漏らしたのは、捲っていた服の袖がズリ落ちて濡れそうになったから。すぐに気づいたユウトが、後ろから手を回して直してくれた。
いつかもこんなことがあったな、などと思い出す。
「…ありがとう。」
透子がそう言って振り向こうとした時、ふわっと背中に重みを感じた。
そしてすぐに、それがユウトの体の重みだとわかった。
後ろから腕を回し、透子を抱きしめている。壊れ物を大切に包むように、そっと。
頬に微かな息遣いを感じるのは、首元に顔を寄せているからだと思った。
振り向けばきっと、すぐ後ろにはユウトの顔がある。
「…会いたかったんだ…すごく。」
絞り出すようなその声が、透子の脳内にじんじんと響いた。
「ごめん…いろいろ我慢できなくて。」
きゅうっと少しだけ、ユウトの腕に力がこもる。
いろいろ…。
きっとそれは、また不審者のように姿を現したことや、マンションにまでついてきたこと。そして今こうやって、透子のことを抱きしめていること。
不思議な感覚だった。
じわじわと湧き上がってくる高揚感で、体が熱くなる。忘れようと思った感情で、胸が飽和状態。
固い決意のはずだったのに。
それが、がらがらと音を立てて崩れそうになっているのに。
それなのに、幸せ。
透子は濡れたままの指先で、ユウトの手に触れた。ぴくんと、震えたのがわかった。
「毎日…連絡できないかもよ?」
「…俺もそこそこ忙しいから、ちょうどいい。」
ふっと、ユウトが笑う。
「…どうしても、瑞樹のことが優先になるよ?」
「かまわないよ。…悔しいけど。」
「…二人きりで出かけたりとか、できないかも。」
「いいよ、俺がここに来るから。」
耳たぶに唇の感触がした。
温かくて、柔らかい。
「…透子さんが嫌じゃなかったら、だけど。」
ユウトの声色には、控えめでありながらも確信を得たような強さを感じた。
互いの気持ちが、同じ方向を向いた気がした瞬間。
「…嫌じゃないよ。」
クスッと、透子は笑った。
「…でも、不審者騒ぎにはもう巻き込まれたくないかも。」
ユウトは、透子のことを強く抱きしめる。以前そうしていたように。
「…わかった。じゃあ今度からは、堂々と会いに来る。」
………堂々と?
それも困るかも…。
そう思ったが、今日のところは言わないでおこうと思う。
透子は、ユウトの体に背中を委ねた。
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