終わりに

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終わりに

「人間とは何か」 この問いにどれだけの天才たちがその知力を尽くしてきたのだろうか。 そして、どの時代においてもなぜ明確な定義がされえないのだろうか。 それは単純に、「定義する言葉」が存在しないからではないだろうか。 科学のボキャブラリーでは捉える切ることのできない、「人間」という不思議な生き物。 それは動物のように生命のリズムを刻みながら、自らも「制作」を通して世界に働きかける不思議な生き物。 それを一言で表すことは不可能に近い。 だが近年急速に発展してきた人間に最も近いAIと人間を比較すると、それはよくわかるのではないか。 人間は決してAI のように合理的ではない、と。 その一番の証明が詩や文学ではないだろうか。 一見支離滅裂な、文法のめちゃくちゃな、「なぜその言葉を選んだのか」という問いに答えられないような言葉選びが、時として一人の人間の魂を熱く揺さぶる。 ある一つの出鱈目で規範のかけらもない文学作品が、時として一人の人間の全身を震わせる。 作家から発せられた言葉「以上」の何かが、読者に強烈に訴えかける。 それは、きっと「合理性」を求めるだけのAIには不可能に違いない。 それか逆のこともきっと言えるではないだろうか。 どんなにAIが発達し、合理的な判断を流暢な言葉で語ろうとも、それでもそのAIが「できなかった」ことが、真似することができなかった部分こそが「私」であり最も「人間らしい」部分なのではないだろうか。 だから少年少女よ。ChatGPTなどのテクノロジーを使うのではなく、テクノロジーと競え。 もし君がテクノロジーの回答や思考よりも劣るなら、君の存在はその輝きを失ってしまうと考えてしまうかもしれない。 だめだ、それでは君はただ従属するだけになってしまう。 そうではなく、テクノロジーが思いつけないことを、思い描けないことをやってのけるのだ。 そこに頭の良し悪しなんて関係ない、誰かが思いついていたってかまいやしない。 でもそれでもテクノロジーには負けるな。ぶっ飛んだアイディアで主張していくのだ、「これが私だ、私は決してAIではない!」と。 もちろんそれは勇気のいることだ。はっきり言って知識の数だけならChatGPTの方が何でも知っているはずだ。そこで人間勝負することなど不可能だ。 だが負けると分かっているなら、戦い方を変えればいいのだ。諦めければ負けではない、戦って戦って、そうしてぶつかりまくっていくことこそが「私」であり「私」が「私」たる所以になるのだ。 たとえ記憶を失おうとも、思考をAI に乗っ取られようとも。 君たちの勇気に、応援と声援を込めて いざ。
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