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あるいは「気持ち」についての考察
博士が認知症になった。
初めはうっかりすることが増えたな、などと思っていたがいつもうっかりしていたので、気づいた時には僕の名前すら忘れていて、僕はとても悲しかった。
そして、それは博士も一緒だったのだろう。
自分の症状が進行していることを思い出しては僕に泣いて謝っていたのだから。
ごめんね、ごめんねと何度も、化粧がぐずぐずに落ちるまで泣いていた。
しばらくして博士は「いいこと思いついた!」と大声を出して一週間ほどラボにこもっていた。
まだ彼女が研究を続けられているのは、日常での物忘れやボケが進行しても、研究の時の思考能力は健在だったから。
そうして一週間後、彼女は右脳の半分にヘルメットのような銀色の被り物をして現れた。
博士曰く、「思考の大半をAIに任せて、認知症を遅らせる!」と言っていた。
長くて茶色い髪が美しいと思っていたので、僕は少し残念な気持ちになったけれど、でも、それでも博士の物忘れは劇的に良くなり、僕の名前を忘れることもなくなった。
それから数日後、博士は、自殺した。
理由はわからなかった。その前の日まで、彼女は元の人格を取り戻し、症状も改善されて幸せそうだったのに。
僕は泣いた。たとえ認知症がひどくなっても、僕のことを忘れていても、あなたさえ生きていればいいと、そう言えなかったことをひどく後悔した。
それからお葬式があって、お墓の中に入って、ラボの荷物整理を任されることとなった。
たんたんと過ぎ去るその「死の記憶」についての様々な儀式を機械的にこなし、心身ともに疲れ切って、窓の外から地面をぼーっと見ていたら、手に持っていた書類の束から、一冊の本が滑り落ち、僕の足に落ちた。
痛みを堪えながらその本を拾い上げると、それは博士の日記の残した日記だった。
読みたかった。なぜ死んだのか、これを読めば全てがわかる気がした。
でもそれは故人の意思に反することではないのか?
僕を恨んでいたらどうすればいい?
死んだ原因が僕にあったらどうすればいい?
小さなことから大きなことまで、僕の頭の中をぐるぐると駆け巡る。
だがふと本の裏を見ていると、そこには僕の名前が書いてあり、続いてこのようにも書いていた。
「私が死んだら読んでください」
その文字を読んだ瞬間、僕は何の未練もなくその日記を開き、ペラペラとめくり始めた。
そこには今までの研究での出来事から僕や友人、家族らとの何気ない日常が細かく丁寧に描かれていた。
だがその愛情と暖かさがこもった日記はどんどん短くなり、しまいには書かない日もポツポツと出てきた。
この時だった、博士の症状が進行しはじめたのは。
僕の名前を忘れた時は、とてもショックだったなぁ。
そんなことを思い出し、僕は涙が止まらなかった。
忘れることは、救いかもしれない。
だが忘れられることは、何ものに変え難い絶望があるにちがいない。
もう、彼女が僕を思い出すことは決してないのだけれど。
そうして涙で彼女の空白だらけの日記ページを濡らしながらパラパラめくっていると、途中からいきなり日記が復活し始めた。
少し考えて思い出す。ああ、この時か、AIをインストールしたのは。
最初の1日、2日はとても嬉しそうな内容だった。
スムーズにコミュニケーションが取れたこと。
ちゃんとやりたいことが全部こなせていること。
そして、悲しそうな顔をされなくなったこと。
そうだ、僕は嬉しかったんだ、彼女が僕の名前をまた呼んでくれたことが。
そうやって嬉しいと思っていたはずなのに。
だが、自殺した日に書いたその文字は少し違った。
そこには彼女の懺悔と後悔が、教科書に印刷されているような規則的かつ機械的な文字で書かれていて、それを読んだら、少し息をすって、それから長く吐いた後、僕は大声を出して泣いた。
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