15人が本棚に入れています
本棚に追加
ピロロン!
「ん……」
耳元のスマホが音を立てた。眼鏡に手を伸ばしながら寝ぼけ眼でタップする。先生だ。
『今すぐスーツで、新中駅東口のマツモトヨシキ前に来てくれ』
「今すぐ……」
乾いた目をしぱしぱしながら、時刻表示を睨む。5時11分。嘘でしょ……眠い。眠すぎる。眠りたい。
……だぁ! 行くしかない!
布団を蹴り上げ、クローゼットに向かう。スーツ、スーツ。
高速着替えの後は、一階へ駆け下りて、洗面所に入る。広くて白くてスッキリとしたおしゃれな洗面所。清らかな水を出す凛とした蛇口で顔を洗い、超特急でメイクを仕上げる。はぁ、素敵。ゆったり優雅にメイクしたいもんだ。……ったく、何なんだ。「今夜は帰らない」と言い残して、初日から私を一人にして外泊して。で、朝5時から取材なの? まじか。せめて言っといてくれればよくない?
ファンデを叩いて、眉を描く。
昨日は、さっそく肉巻きおにぎりを作って、気持ちいい程大絶賛してくれて。あぁ、私、イケメン作家に必要とされてる……、おにぎりを作ることと、ちょっとしたお手伝いで月30万、しかもこんなハイスペ男と素敵なお家に住み込みで……なんて、こんな幸せ私だけのものにしていいのかなって思ってたけど。こんな呼ばれ方するのか。
とにかく今は、行くしかないんだけど……!
新中駅まで4駅。意外とこの時間でも人は、いる。
飛び乗った車内で、景色を見るでもなく昨日のことを思い出していた。
星住喬先生が急にかっこよく見えてきて、どぎまぎしながら、広くて白くておっしゃれなリビングで就業規則なるものの説明を受けたんだ。
えっと確か……
1.僕に毎日、おにぎりを作ること。好みはトリッキー。
2.常時連絡が取れる状態にし、僕からの指示に即座に従うこと。
3.普段着の他、スーツ、ビジネスカジュアル、フォーマル、ドレス等あらゆる場面に対応できる服装を常備しておくこと。
4.休日、休暇、退職についてはその都度応相談。
5.知り得た、僕の作家業に関連するあらゆる情報には守秘義務を課す。
※上記は、体調不良、緊急時等、イレギュラー時はその限りでない。
だったよね。『2.常時連絡が取れる状態にし、僕からの指示に即座に従うこと』がとにかく引っかかって、例えばどんなことかって聞いたら、「僕は、創作のためにそこかしこでよく取材をしているんだが、その手伝いが突発的に必要になる時がある。そんな時は、すぐに来てほしい」って。それが、これって訳ですか。ずいぶんいきなり指令来たな。でも、「創作のために」って、あの顔で言われちゃうとなぁー。つい、なんか、あーかっこいい、そうですよねってなっちゃうんだよなー。
ぶつくさ考えてるうちに新中駅に着き、ほんの数分歩いたところで指定のドラッグストアが見えてきた。先生、どこかな。あ、いた。
先生は、中年男性の肩を抱いて、二人で向かいのファミレスの方を見ながら何やら話し込んでいる様子。何してるんだろ? ふと、先生だけが私に気が付き目が合った。
その瞬間、先生は中年男性に気づかれないように会話を続けながら、私に向かって、シッと人差し指を唇に当てて、斜め前の街路樹を指さした。空中で何度か「そこ、そこ」としている。
ん? この木? これ? ここ?
私が木の陰に隠れるように位置取ると、手のひらを向けて「ストップ」とジェスチャーした。そしてポケットからスマホを取り出し、高速で何かを打っている。
ピロロン! あ、先生。
『そこから僕らを隠し撮りしてくれ。動画を回し続けろ』
え、隠し撮り? 何だろ。と、とりあえずご指示の通りに。
プ。
ひとまず、木陰からこっそり、先生と男性の隠し撮り動画をスタートさせた。
最初のコメントを投稿しよう!