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俺は彼女の家の前に立っていた。
メールを入れると彼女が家から出て来る。
色気もない白いTシャツにデニム、そしてサンダルを履いていた。
何の計画も立てずにブラリと海に出掛けるだけ。
俺はもう一度やり直したかった。
あの撃沈した修学旅行での苦い思い出を塗り替えるために。
駅からバスが出ていて、数分で着く所に海がある。
太平洋に面した海は、波も緩くサーフィンには向いていないけれど一年中サーファーがアザラシみたいに波間に浮かんでいた。
そこには県営の大きな海浜公園があって、ウォータースライダーが併設されたプールもある。
だけど俺たちは、公園を抜けて海岸へと近付いた。
コンクリートで固めた道から防風林を越えて砂地の浜へ抜けて行き、波打ち際にまで近付く。
すると潮の匂いがする。
打ち寄せる波と返す波の絶え間ないリズムが繰り返されて、ウェットスーツの大人たちとすれ違った。
砂がサンダルの中に入り込み、彼女は何度かそれを払うために立ち止まる。
この公園のすぐ近くには港が無い。
だから海に出ているのはサーファーだけで、船は見えない。
船の無い海はただ広いだけで、一面を油絵のペインティングナイフで蒼を塗っただけみたいだ。
蒼海、そこに浮かぶサーファーが点々と海のブイのように並ぶ。
波が立つのを待って浮かんでいるだけ。
今日は風もほとんど吹いておらず、サーフィン日和とは言えない。
それでも彼らは波に揺られているだけでも幸せそうだった。
俺たちは、小さな波が繰り返し押し寄せる白い泡の側にまで近付いて行った。
「綺麗」
彼女が屈んで小さな貝を拾う。
割れて片側の貝だけになったそれを俺に見せた。
久しぶりに彼女が屈託のない笑顔を見せる。
海岸の砂は黒っぽい灰色の砂で、景色としてはあまり美しいものではないけれど、地元民はここで時間を潰す。
このエリアは海の家も建たない寂しい海岸線だ。
「安村さん」
少しだけ波を被って彼女の足が濡れた。
「ははは、濡れちゃった」
引き潮に体が海へ持って行かれるような錯覚が起きる。
それで思わず彼女が手を伸ばして来たから、それを俺は掴んだ。
彼女の手を初めて握る。
少しだけひんやりとしてスベスベする、柔らかい女の手。
この瞬間を待ち続けて来た…。
恍惚とした気持ちになり、そのまま彼女を引き寄せてしまいたい気持ちになったけれど、それをどうにか飲み込んでいく。
好きだ。
そしてまた波が打ち寄せて来た。
キラキラと光る泡がまるで彼女を照らす照明みたいで、映える。
「君島くん、富士山も大島も見える、今日最高の景色だね。江ノ島も見えてるよ」
「烏帽子岩がある。関東大震災の時、隆起した所だから本来なら怖い所だ」
「津波来たらどうする?」
「一瞬だよ。それで皆んな消える」
「死にたくない」
「君を一人で死なせない」
波が大きく打ち寄せた。
俺は彼女の手をしっかりと握り締める。
「君島くん…」
「死にたくなかったら立ち止まるな、過去に戻らず未来を見てればいい」
「君島くん、悟り開いたおじいちゃんみたいな事言う」
「安村さんだっておばあちゃんになっちゃうから、昔の男の事は忘れろ」
俺がそう言うと、彼女は瞼を閉じて少しだけ笑った。
「もう、忘れたよ」
彼女は兄を忘れる事なんかできないはずなのに、そう言った。
嘘かもしれないけれど、俺はその嘘を信じる事にする。
いや、無理にでも信じたかった。
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