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クラスメイトと冗談で戯れ合っている時だった。
俺の学ランの袖のボタンが外れて落ちた。
コロコロと転がって行き、彼女の足元で止まった。
屈んでそれを拾うとしたら、まるでスカートの中を覗くようで、俺は諦めてそれを眺めているだけだった。
彼女はそれを拾い上げて、俺を見て微笑んだ。
「今日、丁度家庭科の授業で洋裁箱持って来てるんだよ。ボタンを付けてあげる」
俺は何も期待はしていなかった。
本当はそうして欲しかったけれど、そんな事を望むのは贅沢だと思う。
「いいよ、学ラン脱ぐの面倒だし」
「大丈夫、着たままで縫い付けてあげるから」
そう言って、彼女は前席の空いていた椅子を指さした。
「ここ座って」
「え…」
彼女はカバンの中から裁縫箱を取り出して、蓋を開けて針と糸を出す。
糸巻きから黒い糸を引き出し、針の穴にそれを通すと玉結びを始めた。
「座って腕を出してよ」
ボタンの取れた腕を出すと、彼女は取れたボタンの位置を確認して針を刺し始める。
大きな瞳が自分の袖口を見つめ、その手が触れる時まるで息をする事を忘れた。
彼女のまつ毛が見える。
眼球を縁取る瞼からみっしりと生え揃うまつ毛が、長くて美しかった。
女の子の唇がリップを塗って艶めいているのを見て、ドキドキしてしまう。
彼女は真剣に針を刺していて、俺の事を見ていない。
その隙に彼女をじっくりと眺めている事ができた。
「お兄さん、まさか教育実習に来るとは思わなかったよね」
針を動かしながら彼女は言った。
「そうだね、まさか俺らのクラスに来るなんてな」
「うん」
接近していた彼女が笑った。
胸に鋭い衝撃が走り、自分の中で爆発的に血液が循環して行くのを感じる。
きっと自分は恥ずかしいくらいに赤面している、そう思った。
彼女の真っ白く、歯並びの良い口元が見えて心臓が高鳴っていく。
それをどうして好きだと表現してはいけないだろう?
「まだ兄貴の事、好きなの?」
まるで自殺行為とも思える質問をしている愚かな自分がいた。
「お兄さん、相変わらずカッコいいよね」
頼むから手際良くボタン付けを終わらせないでくれ。
この幸せな時間を永遠に続けていたい、そう願っていたのに、彼女は数分でそれを終わらせて糸切りバサミで糸を切った。
「はい、できた!」
「あ…」
彼女は針を洋裁箱の針刺しに戻して、蓋を閉めた。
「ありがと」
もう終わってしまった。
兄の事をカッコいいという言葉を聞いただけだった。
「ねぇ、俺さ」
留めたばかりのボタンを見つめた。
しっかり縫い付けられたボタンが愛おしい。
「君の事、今でも好きだよ」
彼女の反応は少し指がビクンと揺れていただけ。
見つめていると目が合って、その唇が微かに動いた。
「私は…お兄さんの事が」
またそれを言うのか?
「好き」
中学の修学旅行の時と同じ、あの台詞。
そうなんだね、君はまだ兄の事が好き。
嫉妬心を抑える事ができなかった。
「でも兄貴は大学を卒業したら、今付き合ってる彼女と結婚すんだよ」
彼女の目に悲しい色が映った。
水平線に沈んでいく黄昏れ時の太陽みたいに、消えかかった光が最後の輝きを残しながら残像だけを残していく。
「そうなんだ」
諦めろよ、君の好きな男は他の女を愛してこの街からも消える。
それでも好きだと言えるのか。
君の側にいるのはアイツではなく、俺なんだ。
急に白けた目つきになった彼女は、落胆したまま洋裁箱をしまった。
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