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「死ねや! クズ! 生きてる価値ねぇんだよテメェは!」
何度も訴えられたから、ついに僕は死んであげることにしました。と、後に彼は語った。
「ラジオ体操第一」
聞き慣れた男性の声と共に軽快な音楽が聞こえてくる。夏休みの子供ではないが、私はほぼ毎日この歌を耳にする。
身体を動かしているのは囚人たちだ。大きな塀の内側には、学校のグラウンドくらいはある運動場が広がっている。何らかの罪を犯して収監されている男たちは皆お揃いの服を着て、規律正しく行動しているように見える。
「おい、漆あんまり見るなよ、行くぞ」
「はい」
彼らを凝視していた私の頭をコツンと叩いたのは、夫である深山梅吉だ。夫は刑務所で働く職員で、私は隣接する職員の官舎に夫と共に住んでいる。
私たちの部屋は五階だ。五階ともなれば、塀の内側の様子が丸見えなのである。顔までは判別出来ないし誰が入所しているかなんて分からないが、普段は知り得ない場所の様子が気になってしまうのは、人間として致し方ないだろう。
「今日はどこへ?」
「南の方へドライブしよう。先輩に美味しいお店を教えてもらったんだ。漆にも食べさせたいと思ってな」
夫はシートベルトを嵌め込み、カーナビの目的地ボタンに触れていく。夫は最近グルメになったような気がする。質より量を重視する食いしん坊な男性だったが、いつのまにか舌が肥えたみたいだ。結婚して五年も経てば、いろんなことが変わってくるだろう。
「楽しみね」
小さな手提げを膝の上に置き、私はにこやかに微笑んだ。
子どものいない夫婦の私たちは、これがいつもの休日の過ごし方だ。特別なところには出かけないし、誰かと会ったりすることも少ない。刺激は少ないが、その分リスクも少ない。
「ノーリスクノーリターンが一番いいよ」
夫の梅吉が何度も呟くから、これが我が家の定番になってしまった。
「お金がかかることは楽しいけれど、一瞬だ。一瞬の快楽のために金を溶かすなんて阿保らしいだろう」
言われて見ればそう思うような気がして、気づけば私も合理主義に傾倒してきたような気がする。
まぁとにかく、堅実に生きていて損はしないだろう。心の平穏を保つためには、挑戦しないことが極めて賢い選択なのだ。
「なぁ、そういえばもう副業はやってないよな」
信号を待つ間、私宛の封筒を破いて中身を取り出しながら夫は言った。
「もちろんよ。危険なことはしないわ」
「副業なんかしなくても、正社員じゃなくても、俺の稼ぎでやっていけるだろう。君は家を守ることが仕事だ」
夫は封筒に入っていたのが懸賞で当てたギフトカードだと確認すると、ほっとして頭をヘッドレストへと預けていた。
私宛の封筒は私が一番に開ける権利があると思うのだが、何も言わなかった。やましいことは何もないし、夫の言うことに身を任せていれば間違いないのだから。
ハイウェイの美しい緑の景観を眺めながら、今の平凡な幸せについて思いを馳せていた。
夫の梅吉は小中の同級生だが、付き合ったのは大きくなってからだ。燃えるような恋愛をしたのも今は昔のこと、結婚相手には頼りになる男性が適当だと彼を選んだ。
選択を後悔したことはないが、胸の中に残った旧い恋心がチクチク疼くこともある。
大好きだった人と同じ道をドライブしたこともあるし、同じ店に行ったこともある。安いパスタなのに、世界で一番美味しかった。
「……今、どうしてるかな……」
心に溜まった淡い記憶を、思い出すのだけは許して欲しい。
「誰が?」
「高校のときの友だちよ。結婚して、今この辺に住んでるの」
「へぇー」
嘘だ。
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