散らない桜

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 桜助の望みを成就するためにはまず、精算が必要だった。   「……いた!」    追跡の結果、人里離れた隠れ家風の旅館で、夫は一回り位若い不倫相手の女性とチェックアウトの手続きをしていた。昨夜何をしていたかどうかなんてどうでもいい。私は夫より幸せになるためにここに来ているのだから。 「やぁ、こんにちは。こんなところで会うなんで奇遇だね」    桜助は支払いを終えた夫に声をかけた。夫は突然の旧友の登場に懐かしさ覚えていたが、私が後ろに控えていることに気がつくと目を見開いた。   「漆……!? これはいったいどういうことだ!? お前もこいつと泊まっていたのか!?」    自分の不倫のことは恥じる様子もない夫に、呆れて物が言えない。不倫相手は何も聞いてないらしく、夫や私たちの顔を見比べてはキョロキョロと様子を伺っている。   「失礼ですが、どちらさまですか?」   「この人は梅吉くんの奥さんだよ」   「奥さん……!? あなた、既婚者だったの!?」    予想通り事実を隠蔽されていた女性は開いた口が塞がらない。騙されていた彼女は少し気の毒だが、気を遣ってやれる優しさは持ち合わせていない。  肩を震わせながら私たちのことを睨み付けている夫には申し訳ないが、この女性も相当だと私たちは知っている。生殖能力がない夫が、お腹の子供の父親であるはずが無いのだから。  桜助は懐から写真を取り出し、彼らに見せつけた。 「なんで既婚者の梅吉くんが、彼女と一緒に産婦人科にいるのかな」 「──!!」  見られてるとは思っていなかったのだろう。梅吉は青ざめた顔で写真を取り返そうとしたが、桜助は直前でビリビリと破り捨てた。粉々になった写真の切れ端が、ゆっくりと地面に落ちていく。 「これって、そういうことだよね? 梅吉くん」  地面に散らばった写真を広い集める夫を、桜助は冷めた目で見下ろしている。 「こ……これは……あの女が! どうしても一人で病院に行くのが怖いっていうから付き添いしてるだけなんだ!」  この期に及んで見苦しい言い訳をよく考えつくものだ。私はイライラしてわざと大きなため息をついてみせた。 「桜助のおじいちゃんが、医師会の会長なのは知ってた?」 「か、会長……?」 「普通、近場であっても妊婦に旅行なんか勧めないんだけどね。『ここなら安全です』って、先生に言われなかった? それ、根回し済み」 「可愛い孫の唯一の頼みなら聞かない訳にいかないよね!」 「クッ……っ」  桜助や私に次々畳み掛けられ、夫は悔しそうに拳を握りしめた。殴られるだろうかと身構えたが、桜助は私の腕を掴んで首を横に振った。  忘れるところだった。私は、もう夫の意見に振り回されなくていいんだった。 「あなたが配偶者以外との間に可愛い赤ちゃんができたということは、私も配偶者以外との間に可愛い赤ちゃんを作ってもいいっていうことよね。私もあなたみたいになれるように頑張っちゃった!」  私は下腹部を撫で付けた。 「……は? 俺の子供じゃないって言うのか?」 「それは分からないわよ、ね? 神様にしか分からないよわよね?」  振り返り、一連の流れを遠巻きに見つめていた不倫相手の女性に目を向けた。女性はハッとして口元を覆い隠すと、尻尾を巻いて逃げ出した。  夫が彼女に対し何か叫んでいるような気がするが、私には関係ない。誰かの言いなりになっている私はもう終わり。新しい私が始まるんだから。  幸せになるのは、私の番よ。 「漆ちゃん」  桜助が私を呼び止めた。 「漆ちゃんはもう大丈夫。幸せになれるよ」  桜助は両耳からピアスを外すと、私の耳に付け替えた。一緒に空けた穴は同じサイズをしており、全てがぴったりとはまる。  桜助の切れ長の瞳には溢れそうに涙が溜まっていた。 「僕は一足先に帰るね。ばいばい」  深夜のバイパスに、救急車の音が鳴り響いたのはその日の夜だった。  翌朝になっても夫は帰って来なかったし、宝来町の枝垂家の邸宅に桜助が帰宅することもなかった。
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