散らない桜

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 今日のディナーに夫が選んだのは、海の見えるイタリアンレストランだった。生憎の曇り空で波は高く荒々しいものの、晴れた日に見れば素晴らしい眺望だろうな、ということは大いに予感させた。大きな窓ガラスの奥には空と海を隔てる真っ直ぐな地平線が伸びていたから。 「昼もいいけど、夜もいいんだ。綺麗な星空の中にぽっかり浮かぶ月がな」 「そうね。見てみたいわ」  夫がノンアルコールシャンパンの入ったグラスを私のグラスに当てると、カチンと高い綺麗な音がした。 「結婚五年目に乾杯!」  夫は喉越し良く飲み干すと、おかわりのためにウエイターを呼びつけた。ペーパードライバーの私は運転を代われないことを申し訳なく思いながら、自分のカシスオレンジに口をつけた。  店内は若いカップルや夫婦で賑わっており、各々が二人の時間を満喫しているように見えた。きっと私たちも周りと同じく、幸せな男女に見えるのだろう。 「ちょっとお手洗いに行ってくるわ」  小一時間のイタリア料理を味わったあと、夫はジャケットを直しながらおもむろに席を立った。  私もしばし休憩とばかりに、久しぶりにスマートフォンを開いた。珍しく、同じ官舎に住む知人からメッセージが入っていた。彼女は子無しの主婦同士、仲良くなった人物だ。年下ながら何かと気を利かせてくれて、私とも良くしてくれる。  彼女からのメッセージには、南欧風の鮮やかな色彩の装飾が施されているビルが写った写真が添付されていた。   「これが何?」    どこかで見たことがあるような気もしたが、思い出せずに聞き返すと、彼女は再び、今度は数枚の写真を送りつけてきた。  お薦めの店なのかも、と画像に目を下ろすと、次に撮られていたのはペペロンチーノのパスタ、モッツァレラのサラダ、そして薄い黄色のシャンパンであった。  私は思わずテーブルの上を二度見した。  食べ終わってはいるものの、夫が食べていたのは同じ真っ白の深い陶器に盛られた同じメニューである。  困惑していると、さらに画像が送信されてきた。  写っていたのは紛れもなく、今席を外している、中肉中背の短髪で黒い革のジャケットを羽織った夫の梅吉の後ろ姿であった。 「──!?」  私は気になってさらにスクロールする。  すると今度は、夫と向かい合った席に見知らぬ若い女が座っていた。痩身の私とは正反対の、巨乳で肉付きのいい女性だ。豊満な肉体を隠しもせず肩と胸を見せびらかしている。  スマートフォンを持つ手が無意識に震え出し、私は利き手とは逆の手でやっとのことで文字を打ち込んだ。 「あの人、不倫してるってこと?」 「それだけじゃないわ」  知人からは、またもや追加で画像が送られてきた。夫と例の女がどこかで何かを見ながら頬を染めているものだった。 「……気色悪い」  彼らは桃色の長椅子に並んで腰掛け、Lサイズくらいの白い紙を見ていた。 「あれはエコー写真よ」  メッセージを返さないでいると、知人が連投した。同じ官舎に住んでいるだけという間柄なだけで、仲が良いと言っても今まであまり深入りはしたことがないのに、彼女はたくさんの情報を私にくれた。 「実は私妊娠したから、総合病院にかかっているの」 「そこでたまたま見つけちゃって、こっそり撮っちゃったんだけど……これって、旦那さんだよね?」 「相手の女、知ってる?」 「不倫だよね?」 「許しがたい案件だよね?」      私はスマートフォンに並ぶ文字の羅列をじっと見ていた。  しばらくして、夫が席へ戻ってきた。  食事中に何をしていたのか、数十分は離席していた。問いただす気にはなれなかったが、口角を上げて迎え入れた。   「おかえり」   「悪い、腹下してさ」    夫は笑いながらデザートのアイスクリームへと手をつけた。ひんやりして、さぞ胃腸に悪かろう。  先ほどまでは開いていたはずのジャケットのボタンが、きっちりと全て閉じられている。 「ついてないわね」  私は食後のコーヒーを啜った。なんだか、ブラックの気分だ。 
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