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「漆、今日は砂糖無しなんだな」
「いい加減大人になろうかと」
角砂糖を入れずとも、コーヒーの苦味は感じなかった。何の風味もしない黒い液体を喉の奥へと流し込んだ。
「おやすみ、漆」
夜の営みを心に無にしてやり過ごし、夫の寝息が聞こえたのを確認して私は再び瞼を開いた。腕枕をされていた太い腕を適当にはねのけ、ダブルベッドで仰向けで寝ている夫と距離を取る。
「はぁ……」
まさか、夫まで浮気する側なのだとは思わなかった。昨日まで何とも思わなかったのに、彼の身体も顔も汚らわしくてしょうがない。私はベッドの端ギリギリまで寄って、できる限り夫から退いた。
思い返してみれば、出張や酒呑みが増えたのはそういうことだったのだろうが、夫が言い寄られるほど魅力的な人物だとは思えず、女がいるのは青天の霹靂だった。
平然とした顔で妻の私に会い、両親とも酒を汲み交わし、悪びれることもなく婚外子まで作っていたという訳だ。
親のことを思うと、自然と怒りが込み上げてきた。
結婚式はささやかなものだったが、お互いに愛すると確かに誓い合った。忘れられない相手がいるものの、夫婦になったからには胸に秘め、夫に尽くしていく覚悟をしていた。生活の色々なことを夫の言う通りにし、夫の喜びが私の喜びとなるように意識して、この五年間生きてきた。
それなのに、夫ときたらまるで誓ってなどいないように自由にアラサーを謳歌しているではないか。
私は唇を噛みしめた。
今、私の中にある感情は、若い女性に寝取られたという悲しさではない。夫に対する怒りのみだ。
夫は感情の赴くままに子どもまでこしらえたというのに、私は郵便すら管理下に置かれている。こんな不平等、あってはならない。
「もう尽くさない。もう絶対騙されない。私も好きなようにさせてもらうから」
「久しぶり、漆ちゃん」
私は好きだった人を喫茶店に呼び出した。背の高い彼、枝垂桜助の、目元まである真っ黒でストレートな髪が揺れた。
桜助は私を見ると顔を綻ばせ、二人掛けのテーブルの壁側に座る私の横にピタリと並んだ。
「ちょっと、近すぎるんじゃないの」
「嫌?」
「嫌じゃないけど……」
薄手のスカート越しに彼の体温が伝わってくる。昔あったことを思い出して、何もしていないのに顔から火が出そうだ。
中二病真っ只中、金色に髪を染めたワルい人を好きになってしまった私は、相手に条件を出された。
『これからも付き合って欲しいなら、デート代全部おまえが用意しな』
「お金なんてないよ……」
「じゃあ諦めるしかねぇな。金のないヤツを女になんかしない……そうだ、おまえ、パパ活しろよ! おまえ大人っぽいからそこら辺で引っかけてこいよ!」
私は言われた通りに夜の繁華街をぶらぶらし、知らないオジサンに声をかけられた。
しかし、繁華街から横道に逸れたところに桜助が立っていたからオジサンに嫌らしいことをされることはなかった。
桜助は何故か息をきらしており、強引に腕を掴んできた。
「僕が"パパ"になってあげるよ」
それからの展開は想像通りである。
小太りで剥げたオジサンと細身のイケメンのどちらかと寝ろと言われれば、誰だって見た目麗しい方を選ぶだろう。
「漆ちゃん、これくらいで大丈夫?」
事を終えた朝に、枕元には両手で足りない程のお札が置かれていた。
「こんなに貰えない……」
「いいの、僕が渡したいだけだから受け取って。好きなだけ小遣いにして」
桜助は私に服を着せながら穏やかに微笑んだ。
女は身体を重ねると相手のことを好きになる、なんて聞くけど、私も同じだった。
一ヶ月もたたないうちに私は金髪彼氏と別れを告げた。もう桜助以外の人と同じことをする気にはならなかった。
「漆ちゃん、かわいいね」
「大好き、漆ちゃん」
桜助はたくさんの言葉を囁いてくれた。
パパ活をする理由がなくなっても、ずっと近くに居てくれた。受け取る理由がないからとお金の入った封筒を突き返せば、物になって返ってきた。
「ねぇねぇ、どれが欲しい? 欲しいの全部取ってあげるよ!」
ユーフォーキャッチャーのお店の前で、桜助はうきうきしてぬいぐるみを指差した。たまたま通りかかった人達から見れば、ゲームセンターではしゃぐ普通のカップルに見えるだろう。
でも桜助は私のことを決して彼女だとは言ってはくれなかった。
私はただのセフレであり、身体を差し出す対価として金品をくれるに過ぎないのだと気づいたとき──「好き」だと、言い出すことができなくなってしまったのである。
夫と出会ってそろそろ結婚を視野に入れるまでの長い年月を過ごしてきたのが、桜助だ。彼の全てを手に入れたのは私なのに、ずっと片想いしていた。
夫に裏切られた以上、誰にも言わなかった本当の気持ちを彼に伝える権利があると、私は覚悟を決めた。
「桜助、お願いがあるの」
凛々しい彼の顔を見上げ、私は真っ直ぐに瞳を見つめる。
「もう一回、"パパ"になって?」
桜助は近づけていた顔を離し、わずかに目を泳がせた。
「それってどういう意味?」
「そのままの意味よ」
「と言うと?」
桜助は大量の砂糖をすくって、ティーカップに注ぎ入れた。
「お金がないのか?」
彼は尻ポケットに入れた財布を取り出したが、私は首を横に振ってカードを取り出そうとした手を拒んだ。
「そうじゃない」
夫に浮気されていた経緯を話した。夫が浮気するなら、私も同じ。ずっと想い続けていた男と遊んだって文句は言えないだろうと。
桜助と私は何も清い関係という訳じゃない。一度一線を越えたのなら、何度目でも同じだろう。今さら、私に対して愛しいとか大事にしたいなどの言葉なんてかけなくてもいいのだ。桜助のことが欲しいのは私で、桜助にそばにいてもらうだけでいい。
「これからの人生を考えたとき、あなたと一緒に過ごしたいと思ったの。私はあなたといたいの、桜助」
桜助ならきっといいよと言ってくれると信じ、私は期待を込めて彼を見つめた。耳元のピアスが照明で光る。
「無理だよ」
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