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予想外の台詞に、私は目を丸くしてソファ席から立ち上がった。
「なんで!?」
「漆ちゃんは既婚者だもん。僕争い事は御免だ」
桜助は至極当然な意見を述べてコーヒーをすすった。
「でも、桜助のこと好きなのは本当だよ!」
「それとこれとは別問題。僕も漆ちゃんのこと好きだけど、漆ちゃんは幻滅すると思うよ。僕の本当の姿を知ってしまったら、もうこうしていられないと思うよ」
「本当の姿?」
満月に狼に変身する狼男でした! とか、血がないと生きていけないヴァンパイアです! とでも言いたげだが、当然そんなことはない。ゴミ屋敷に住んでいたり、ギャンブル中毒だったり、現実的で自分ではどうしようもなくなってしまった習慣のことを指しているのだろう。
とりあえず嫌われてはいないことに安堵して、私は胸を撫で下ろした。
隠したい秘密などどうでもよくなるくらいに、私のことにメロメロになってもらえればいいのだ。私は桜助に振り向いてもらおうと行動を開始した。
「桜助、ピアスお揃いのつけようよ」
私は持参したシンプルな細いシルバーのリング状のピアスを、自分の耳元に当てて見せた。
十代の頃だったか、桜助の方から一緒のが欲しいとプレゼントされたことがあるから、こういうのは嫌いじゃないはずだ。
「ははっ、子どもじゃないんだし」
鼻で笑われ、彼はその場を去った。
悔しかった私は、イイオンナになろうと自分磨きを始めた。出会ったころ小学生だった私も桜助も、今や立派な大人である。大人のコミュニケーションといえばお酒、飲めば私のことも何割か増しに見えるだろう。
夫が夜勤のときを狙い、繁華街とは逆の、昭和感の残る寂れた居酒屋に足を運ぶ。私が可愛く見えればいいのであり、店が華やかである必要はないのだ。
「桜助! ほら、これ飲んでみようよ! すごいアルコール度数!」
私は桜助の空いたビールジョッキに、自分の注文した高い度数のお酒を注いだ。一見しただけでは何の種類か分からないはずだ。酔わせてあんなことやこんなことに持ち込もうと、ジョッキに口をつけるのを片時も目を離さず見守った。
「ふっ……ふははははは!」
しかし突然吹き出し、笑い転げる。
「僕をお持ち帰りしようとしてるの?」
一発で言い当てられて顔が真っ赤に染まった。
桜助は食べていたツマミのアイスクリームをひとくち差し出し、私の口の中に入れた。不純物が混じっていないバニラアイスクリームが、口内の温度でじわりと溶ける。
「僕は酔うと死にたくなる質でね。死にたくないから強いお酒は提供しないでくれる?」
「……ゴメンナサイ」
桜助に死なれては、私も悲しい。
物騒なことを口にする彼に免じて、"既成事実からの自責の念に訴える作戦"はやめておくことにした。
桜助は意外とガードが固かったのだ。
何度も枕を共にしたことがあるのだから、今さら大きな問題はないと思っていたのは私だけだったのかも知れない。立派な青年に成長していて、不倫で悩んだ末に抱いてもらおうと企んでいる私が恥ずかしくなる。きっと彼は私よりももっと色々な不幸を経験している。
「桜助、私の負け。何でも言うことを聞いてあげる」
「僕、漆ちゃんと勝負してた覚えはないんだけど」
にこやかに棘のある言い方をする桜助の言葉が、ちくっと胸に刺さる。何年も会っていなかったけれど、性欲解消要因としては需要があると思っていた。期待していたぶん、なんだか心が淀んでいく。
恥ずかしさと報われなさで胸がいっぱいになりながらタクシー乗り場へと夜の道を歩いていると、少し前を歩く桜助の足がふと止まった。
急にストップするから背中にドンッと身体がぶつかる。
「桜助?」
彼の視線の先には、二十代後半くらいの若い男女が子供を抱いていた。
「誰だっけ?」
ポツリと呟くから、私は目を凝らして彼らの顔を凝視した。暗くてハッキリとは見えなかったが、小学校が一緒だった元クラスメイトのようだった。
「ユキちゃんとソウちゃんかも! わー! いつのまにか結婚してたんだね!」
「……そう」
聞いておきながら興味が無さそうに返事をした桜助に、私は拍子抜けた。旧友の幸せと新たな命の誕生にはしゃいでいたのは私だけで、彼はクラスメイトとの再会を喜んでいた訳ではないらしい。
では何を見ているのか。
私は彼の視線をもう一度追った。
生まれたばかりのふにゃふにゃの赤ちゃんが、子猫みたいな声で泣いている姿を、澄んだ瞳で見つめていた。
「桜助は子どもが好きなの?」
「うん」
彼は目を離さずに語った。
「僕みたいに汚れた心じゃなくて、どの子もみんな綺麗だから」
「……」
桜助が穢れているなどと思ったことがなかったが、私の脳裏には解決の糸口が閃いた。大人になった桜助を手に入れ、私が幸せになるための唯一の方法である。
私は立ち尽くしている彼の耳元に唇を寄せて囁いた。
「子どもが欲しいなら私が産んであげる」
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