散らない桜

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 親子を見つめていた桜助だが、さすがにゆっくりとこちらを振り向いた。   「……はい?」    開いた口が塞がらない様子である。   「結婚してる人が何を言ってるの。自分から慰謝料発生するようなこと言わないの」    桜助は哀れむような目で私を見ながら、再びタクシーへと歩き出した。私は慌てて小走りで後を追う。   「不仲だから! これは私にしかできない案件よ! これを逃したら桜助、一生子ども持てないかもよ!」    やや強い脅迫に、桜助はピクリと足を止めた。   「不倫されてるって言ったでしょ? 夫は私じゃない女性との間に子どもがいるの。それが理由のひとつ」   「……」   「もうひとつは、お腹にいるときは誰が父親かなんて分からないから、夫の子どもとして約十ヶ月隠し通すの。産まれる前に離婚してしまえば、似てないだなんて問題にならないでしょう? もちろん、養育費なんて請求しないわ。そこまで下衆じゃないもん、私」    自分で言っておいてだいぶ黒い気もするが、桜助は無言で考え込んだ。無茶なやり方でもいいほど、彼が子ども好きだとは知らなかった。  呼び出したタクシーの運転手が、こっちだよと私たちを呼んでいる。早く乗らなくては迷惑がかかってしまう。  私は桜助の手を引いて、路肩に駐車してあるタクシーに乗り込む。 「ごめんね変なこと言って。とりあえず後で電話する……」  運転手の老紳士が扉をバタンと閉めたと同時に、桜助は私の前髪をかきあげ、額の真ん中に口づけた。 「覚えてるよ。ココに黒子が並んでるの」  紙の生え際に並ぶ二つの黒子をまじまじと見つめてほくそ笑み、桜助はアクリル板越しの運転席へと話しかける。 「すいません、宝来町までって言ったんですが、元吉原まで」 「はいよ」  グレーヘアーの運転手は、特に何も言わず目的地へとハンドルを切る。元吉原はその名の通り元々遊郭があった場所で、現在は大人の夜の社交場となっている。桜助は後部座席に深く腰掛け直し、意味深に片目を瞑ってみせた。  これから起こる触れ合いに、大人気なく胸が高鳴る。やろうとしていることは論理に反しているけれど、自分の心には嘘をついていない。   「前言撤回。僕の子どもを産んで下さい」    桜助は私の手首を取りながら、口の中に深く舌を差し込んだ。    私と夫の間には子どもはいない。  新婚時代を長く楽しむという夫の要望で、まだ完璧に避妊を行っているからだ。だから私は桜助にあなたの子どもを産んであげると堂々と言えたのだ。    私は健康管理アプリのメモ欄に、青いハートマークのスタンプを押した。努力が実ったらすぐに逆算して予定日を知らせたくて、致した日々を漏れなく記録した。  子どもができたらどんな顔をするだろうと想像すると、自然と顔がにやけた。桜助は綺麗な顔をしているだけでなく、頭もいいし気品もある。女の子からよく声をかけられるけど、身体を知っているのは私だけだ。大好きな男性を独り占めしているのかと思うと、優越感で満たされる。  本当は彼女という立場になって彼と結婚したかったけど、子どもを産んでもいいと言われたのだから実質彼女だと思ってもいいだろう。  アプリのカレンダーに並ぶハートマークを見ながら、私は幸福感に包まれた。夫に従ってばかりのときは得られなかった感情が、次々と頭の中を支配する。 「私、夫がいなくても何でもできるじゃん」  しばらく天気のいい日が続いていたが、六月のある日ついに梅雨に突入した。待ちわびていたかのように雨は本気を出して降りだした。 「漆、最近実家に帰りすぎじゃねぇか? 何をしてるんだ?」  夫が不意に私を不審に思い始めた。 「嫁に来たのに、しょっちゅう実家に頼るな。おまえの居場所はここだろう? それくらい馬鹿でもわかる」  夫は私の外出範囲を市内までに変え、スマートフォンに夫しか解けないパスワードをかけた。桜助との接触はパタッと途切れた。
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