散らない桜

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「それじゃあ、行ってくるな。今日も留守番頼んだからな」  夫が出勤し、作り笑いの仮面をようやく外す。  何ヵ月か性的接触してみたものの、まだ妊娠には至っていなかった私は、内心とても焦っていた。避妊しなければすぐに授かると思っていた。夫には、離婚届を出すその日まで養ってもらわねばならない。桜助は子どもが欲しいとは言ったが、結婚するとは言っていない。せめて保育園に預けられるようになるまでは、慰謝料で食いつなぐ作戦なのだ。妊娠するより早く不貞行為が公になってしまったら意味がない。  どうにかして桜助に会う方法はあるのだろうか。  グラスに一杯の氷を入れ、ウォーターサーバーから冷水を注ぎ込んだ。冷えた水がさらに冷たくなって、口の中を突き刺した。 「──っ!」  瞬間、手からスルリとグラスが滑り落ちて、フローリングには破片や氷が飛び散った。 「……あ……」  やってしまった、と立ち尽くした。何から手をつければいいか分からなくなっている部屋の外からは、いつものラジオ体操の音が聞こえてくる。静かだと元気よく聞こえる。この国では罪を犯しても、基本的には健康に生きられるらしい。  ガラスを踏まないようにそっと指を下ろしながら歩くと、リビングの固定電話が着信を知らせていた。長電話のしない母が、珍しく電話をかけてきてくれていた。 「お母さん!」 「漆、聞いた!? 桜助くんのこと」  母の口からはまさかの名前が出て、心臓が大きく脈を打った。 「あなた、確か子どものころ桜助くんと仲良かったわよね」 「うん……彼が、何か?」 「捕まったらしいのよ」 「え?」 「アルバイト先のお金を横領して、刑務所らしいわよ」 「け、刑務所……?」  私は頭が真っ白になった。悪いことなどする人ではない、というよく聞く言い訳はさておき、そもそも桜助の家はお金には困っていない、町内でも有名な裕福な家庭なのだ。困惑して言葉に詰まると、母は声を落として続けた。 「ここだけの話ね、桜助くん、心を病んじゃったみたいなのよ。元々正社員になれていないことを気にしていたのに、彼女にフラれて引きこもるようなっておかしくなったって」 「おかしく……」  私は心当たりがあった。  アラサーになってもたくさんのピアスでお洒落し、長い前髪で他者と一線を画そうとする、どこか浮世離れした彼だ。彼女というのは私を指し、私と会えなくなったことに、彼は私が思っていたより遥かにショックを受けてしまったんじゃないのだろうか。  もしそうであったら嬉しいけど、罪を犯してしまうなんて普通じゃない。一刻も早く桜助に会いに行かなければ!  驚いたことに、桜助が横領したのは初めてではなかった。桜助は一年以内に三度目の事件を起こし、以前よりも多額の金を使い込んだとして実刑が課せられていた。 「びっくりだな、知ってるヤツが犯罪者なんて」  桜助の罪の詳細を教えてくれたのは、刑務官である夫の梅吉だった。 「そうね……」  桜助は家のすぐ隣の刑務所にいた。  家の中にいても毎日何度も聞こえてくる体操の音、野球で盛り上がる男たちの声。それらのどこかに、桜助のものが混じっていたのだ。  夫が地元の刑務所からの転勤が決まったとき、今度は『累犯刑務所』に異動だと教えられたことがある。何度か罪を犯した人が入所する施設で、私には縁のない別世界の人達だと思っていた。  受刑者が体操や運動をする時間は私でも知っている。知るつもりはなかったが、何度も聞こえてくればだいたいの時間はわかるというものだ。  私は狙って外に出て、外出を装って階段の踊り場へと向かう。最上階の五階からは、塀の中がよく見える。同じ服を着て、同じ帽子を被った人たちの中では桜助を特定することは不可能だったが、決まって私は前髪をかきあげた。 「ここだよ、桜助。私はここにいるよ」  だが、静かで穏やかな日々は長くは続かなかった。 「塀の中の奴らをジロジロ見るなと言っただろう」  防犯上の理由から、桜助に意思を伝えることはできなくなった。 「あいつのことが気になるのか?」  母に続き、夫の口からも桜助の名前が上がり、私は咄嗟に取り付けたような笑みを浮かべる。 「そりゃあ……そうよ。小さい頃を知っているんだもん。純粋な子どもだったのに」  桜助と同じく、夫も私と同じ小学校の同級生だ。ついこの間まで関係を持っていたとは想像できないだろうが、可能性としてなくはないということは、夫も理解しているだろう。頻繁に地元へ帰っていた理由を、友だちに会うためだと信じきっているはずがない。  心を読まれないように、悟られないようにしなければ桜助との繋がりがバレてしまう。冷や汗をかく手をスカートに擦りながら、私は夫に向き合う。 「昔はあんなに可愛かったのにね」    ため息をつく演技をし、心の中では神様に祈りを捧げた。    どうか、お願いします、神様。  桜助の子どもを無事にこの手に抱かせて下さい。  いけないことだとは分かっています。  でも、夫も同類です。  神様からの贈り物を私たちにも授けて下さい。
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