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悪阻が酷く、隠しておくことは不可能だった。
夫は他にも子供がいるのによほど嬉しかったのか、氷菓子やゼリー飲料を買ってきたりと若干気を使ってくれるようになった。
しかし私の気分が良くなることはなかった。もしも夫の子供を授かっていたら、この先もずっと彼に縛られることになってしまう。桜助の子供だとしても、離婚に応じてくれなそうな今の夫では、激情するに違いない。夫だけでなく、私の味方でいてくれる両親にも縁を切られてしまうかも知れない。
どっちに転んでも、最悪だ。
このタイミングで、妊娠するなんて……。
私は何をする気も起きず、ベッドの中に伏していた。家の至るところの匂いが悪臭に感じ、ティッシュペーパーを折って鼻と口を塞いだ。
家電が光り、ズルズルと這い上がって受話器を取った。
『土日、急な出張が入った。俺の分の食事はいいからゆっくりするといい』
「出張……?」
久方ぶりに見た単語であった。夫にとって出張とは不倫旅行を指しているのだが、気づけば私が妊娠してからは行っていなかった。
考慮の後、母に頭を下げた。
「気持ち悪い。桜助の家の高級オレンジが食べたい」
少々無理矢理だったが、母は桜助とオレンジを寄越してくれた。
きちんと食べているのか疑わしいほど相変わらず細い桜助は、様々な食べ物を両手に抱えて訪ねてきた。オレンジの意図を理解して大喜びのところ申し訳ないが、桜助に言わなければならないことがある。
お腹の子供の父親は分からない。
期待に添えない可能性もあるということ。
私は緊張で手が震えた。もし桜助の子供ではないなら、今までのこと全てが無駄になってしまう。私から子供を産んであげると言ったのに、約束を守れなくなってしまう。心苦しくて桜助の顔が見れない。
私は目を瞑った。何もしてやれない、何も成せない自分が嫌で堪らない。
夫の思い通りに生きたくなどなかったのに、結果的に彼が思い描いたように進もうとしている。こんなつもりではなかったのに。物欲が無い彼が唯一望んだ子供という存在を、プレゼントしたかったのに。
目尻から暖かいものが流れ落ちたけど、気分が悪くてティッシュペーパーを鼻から離せない。
「ごめん……ごめんね、桜助。全然使えない奴で。赤ちゃんは桜助の子供じゃないかも知れないの」
私だって自由に生きたかったのに。他に女と子供を作るような夫なんか、捨てたかったのに。
潤んで前が見えない瞳を、無理矢理こじ開けて告げた。
もう一滴雫が落ちたとき、桜助はキョトンとした顔で私を見つめていた。
「なんだそんなことか」
私は逆に呆気に取られて、悪阻も忘れて声を張り上げた。
「何だって何よ! 私は夫ともヤッたって言ってるんだよ!? 誰の子だか分かったもんじゃないのに!」
「僕だよ?」
「だからそう言いきれないって言ってるの!」
「僕だってば」
桜助は全く動じることなく、小さく切ったオレンジの皮を剥いている。辺りに広がる柑橘の香りがちょっとだけ胸元を軽くする。薄皮まで丁寧に取り除き、私の口の中に入れた。
ニヤッと微笑んで、咀嚼する私を満足げに眺めた。
「僕しかあり得ないの。僕がパパだよ」
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