散らない桜

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 自信満々に答える桜助に、私は首をかしげた。   「どうしてそう言えるの?」    桜助はまだ全く妊婦らしくない私のお腹に手を当て、シーッと人差し指でジェスチャーした。 「僕は殺人犯だからね」 「え?」 「いや……正確に言えば、生まれる前の殺人犯……深山梅吉の精子は十七年前に死んだ。僕が殺したから。あいつの子孫はこの世に生まれてはいけないから」  桜助の瞳の奥に燃えるような怨恨が宿っている。 「漆ちゃんの夫……深山梅吉は、僕と六年間同じクラスだったんだ。僕の家はこの通り裕福だから、都合が良かったのかもね。ずっとお金を巻き上げられていたんだ」 「……梅吉が!?」  桜助は静かに頷く。夫は威圧的だが真面目な人だと思っていた。刑務所に勤める国家公務員である。 「僕もピュアだったから、家にあるなら渡せばいいと思ってたんだ。小遣いを差し出せば大人しくしていてくれたしね……でもね、中学に進学して奴と離れても、お金が僕の手元にあると、不安でしょうがなくなったんだ」  私は昔、桜助にたくさん貢いでもらっていたことを思い出した。身体を差し出す対価だと思っていたが、そうではなかったのか。 「僕は大人になっても浪費癖が治らなくてね……。むしろいろんな人と出会って酷くなったんだ。"お金があると取られる"って、今でもずっと思ってる」  桜助は布団をぎゅっと握りしめた。 「だから、結婚できないのはそういう理由。本当は僕も漆ちゃんと一緒になりたかったけど、僕は子どもに関する手当ても学費も使い込んじゃうかも知れない。持っていれば奪われるっていう被害妄想を止められない。僕は漆ちゃんを不幸にしちゃうんだ」 「桜助……」  一度植え付けられた洗脳から抜け出すことは難しいし、子どもの頃ならなおさらだろう。 「だから僕は、僕をこんな風にした深山梅吉を許さないし、僕のような被害者をこれ以上出さないためにも、精子から息の根を止めることにしたのね」 「精子から」  謎の理論に拍子抜けして、涙はすっかり干上がった。 「流行性耳下腺炎……おたふく風邪を利用したんだ」 「おたふく風邪……」  子供の頃に罹患すれば軽度で済むが、大人がかかれば生殖機能にダメージを及ぼすと言われている疾患だ。 「弟がおたふくにかかってね。僕はこれ幸いと、誕生日パーティーにわざと奴を招待した。弟は家族に移さないように隔離されていたけど、奴には部屋を訪れてもらった。パーティーで忙しい執事に代わり、看病を交代して欲しいってお願いしたら、快く承諾してくれたんだよ」  桜助は財布を開けチラリと札束を見せた。 「そしたら、ビンゴ! 奴は貧乏子沢山の放置子だから予想通り予防接種を受けていなかったんだ。病院にもなかなか連れていってもらえず、祖父の病院に来て病名が判明したときにはかなりの高熱が何日も続いたあとだったんだよ」  私のお腹を撫でながら、桜助は楽しそうに続ける。 「僕はまだまだ子供だったけど、奴は違う。声変わりも済んで、精通もやったと言っていた。自慢気に教えてくれて本当に助かったよ。こんなにこんなに、生きるのが楽しみになったんだから!」  積年の願いが叶ったかのようにガッツポーズしてみせた。  私は他人の不幸を溌剌とした表情で語り続ける桜助のことが、ちょっとだけ怖くなった。  けれども桜助の気持ちも分かるというものだ。件のいじめについて、夫は恐らく覚えていないが桜助は忘れることのできない嫌な記憶になったのだ。やった方は都合良く忘れ、やられた方は後々まで影響があるというのは理不尽だ。  いじめっ子にも制裁を課さなければ、腹の虫が収まらないだろう。  夫に不倫されていた私が他の男と通じたように、目には目を、歯には歯を……どころか、さらなる復讐をしなければ、自分の犯した罪の重さに気づかないから。 「信じて、漆ちゃん。赤ちゃんの父親は僕だ。もう漆ちゃんは奴の言いなりになんかならなくていい。自由に生きていいんだから」  桜助は私の両手を自身の手のひらでぎゅっと掴んで包み込んだ。 「もちろん、僕の言うことも聞かなくたっていいんだよ。漆ちゃんの人生は漆ちゃんのものだから」 「──うん」 「僕は漆ちゃんが幸せになってくれるのが一番の望み。漆ちゃんのことを世界で一番、愛してるから」  屈託の無い笑顔を向けて、桜助は唇に口づけた。  端正な顔が一瞬、幼い子供みたいに映って、子供の頃の彼の姿を思い出させる。  サラサラの黒髪で背が低かった桜助は、よく女の子に間違えられていた。優しさ故にいじめられっ子の格好のターゲットにされているという噂が、隣のクラスの私の耳にも入っていた。  桜助はか弱い男の子だったことを、いつの間にかすっかり忘れていた。  小学校最後の運動会の日、体操着で学校へ来た彼は、ポケットにお金を入れてくるのを失念していたらしい。教室に水筒を取りに戻ってきた私は、偶然現場を見てしまったのだ。 「運動したのに労ってもくれねぇのか! 死ねよボケ!!」 「おい、空気吸ってんじゃねぇよ!」  いじめっ子が男の子を平手打ちすると、青いハチマキが宙に舞った。 「青組優勝おめでとう! 俺からのプレゼント、受け取ってくれるよな!」  足元に置かれた水色のポリバケツには水がいっぱい入っていて、何をするかは安易に想像ができ、私は思わず彼の前に立ち塞がっていた。いじめっ子は怖かったけど、男の子が彼らのおもちゃにされている方が何倍も気に入らなかった。 「……暑かったんだ! ありがとう!」  バケツの水は私の頭から足先までをグッショリと濡らした。 「……」 「なに、お前。気狂ってんの?」  髪の毛の先端から、ポタポタと水滴が垂れた。  私のクラスは仲良しだった。いじめっ子はいないし、頼りになる先生がいじめの芽も瞬時に摘んでくれていた。  けれどもしそうじゃなかったら、私もいじめられていたかも知れない。波風立てるより穏便に済ませたいこの子の気持ちが、私には分かったのだ。 「狂ってるのはそっちでしょ」 「何?」 「先生ー! この人が、私とこの子(・・・・・)にいたずらしてくるんです。やめてって言ってもやめないんです。お金だって、無理矢理取られそうになって……っ!」  帰り道にアイスクリームを買う為にこっそり持ってきていた小銭を見せながら、ハイスペック教員の担任の先生に私は泣きながら訴えた。いじめっ子は違うだ何だと叫んでいるが知ったこっちゃない。人を邪険に扱う方が悪いのである。  呆然と眺めている男の子の手を取って、指切りげんまんをした。 「秘密だよ。いつもはこういうことしないんだから」  思い返せば、桜助と仲良くするようになったのはその頃からだ。目が合えば人懐っこく笑って、一緒に帰ろうと声をかけてくれるようになった。  私が桜助と過ごした時間はきっと、記憶しているよりずっと長い。私たちは常に、お互いの心の拠り所であったのかも知れない。 「桜助、私も桜助に協力するよ」  私は前を見据えて言った。 「桜助の本当の幸せは私が幸せになることじゃないよね」  静まり返った部屋には、盛夏の蝉の鳴き声がやけにうるさく響き渡った。桜助は苦笑いして、腕の中に私を抱き寄せた。 
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