3.私はここにいるよ 

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「むーちゃん、昨日調子悪かった?」  出勤と同時に麗が近寄ってきた。 「あ、うん……昨日は迷惑かけてごめんね。もう大丈夫だよ」  あれだけ泣いたのに、私の決意は一日しかもたなかった。店長にも『辞める』というひとことがどうしても言えず、焦って口にした言葉が『休む』だった。 「無理しないでね」 「……」  また泣きたくなって、慌てて背を向けて着替える。 「宮原さん、お疲れ様。具合大丈夫?」  一緒に働くスタッフが次々と声を掛けてくれる。 「はい、もう良くなりました。昨日は迷惑かけてすみませんでした」 「無理しないでね」  麗が言ってくれたのと同じ言葉を、皆も次々と口にしてくれる。 「はい。ありがとうございます」  ……やっぱり嫌だ。  私は覚悟を撤回する。  私にとってこの空間は束の間ほっとできるだけの、枷を一時忘れるだけの、逃げの場所ではなくなっていた。――ここにいるときの自分が、私は好きなんだ。……私には、贅沢なことだってわかってる。だけど、この場所を失いたくない……。 「昨日の分も、今日はいっぱい働きます!」  私は皆に言う。ちゃんと顔を上げて、声を張って。笑いが起きて、また空間が弾ける。 「宮原さん、丁寧で仕事が早いからほんと助かってるよ!」 「ほんとほんと、覚えも早いし」 「あ、ありがとうございます」  褒められることに慣れていないせいで笑顔はぎこちない。けれどその分、皆が笑顔を向けてくれて救われる。 「むーちゃん、作る方って興味ある?」  唐突な麗の言葉に「え?」と顔を傾ける。 「むーちゃんがうちで長く働いてくれるつもりだったら、有賀さんがむーちゃんに調理の方教えるって」  有賀さんは料理長でもあり厨房の責任者だ。 「時給も今よりアップするし経験としても役に立つと思うよ。人生の選択肢って多いほどいいじゃん?」 「考えてみる。ありがとう」  自分の人生は睦美の傷痕を治した後にある。今は正直、将来のことは考えられない。だが他人から期待されることが嬉しかった。       * 「そういえば、アオくん……その後、連絡あった?」  小休憩に入り、雑談の僅かな隙間に碧の話題を挟んだ。本当は気になって仕方がなかった。私ではなく睦美と会った碧は、この後どうするつもりなのか。睦美のことを、好きになってしまったのだろうか。もう私と会う気持ちがなくなってしまったのか。 「アオくん? 忙しいのかな、メールこないなあ」 「……そっか」 「就職先の研修の日程が決まらなくて、予定が立てられないってこの前言ってた気がする」 「あ、動物病院だっけ」 「うん。もしかしたら今、研修入っちゃったのかもね。帰ってきたら真っ先にむーちゃんに会いに行くんじゃないかな」  麗はニヒニヒ、という感じで笑った。 「……そっか」  もう会いに来たんだよ……そして、私と(睦美)を間違えたんだよ。  言葉は、喉元にも届かなかった。 「とりあえずアオくんにメールしてみよっか」  言いながら麗はスマホに指先を乗せる。 「返信来たら教えるね」 「う、うん」  そんなやりとりから一週間が経った。  麗から碧の話題は出なかった。     *  ふふ~ん、ふんふん、ふ~ん  ここのところ上機嫌な睦美は、鼻歌交じりでキッチンに立っていた。 「麦ちゃん、おかえり。夕ご飯食べた?」  優しく明るい口調が向かってくる。  「今日はね、私がエビフライとアップルパイを作ったよ。良かったら食べてね」 「いい。店でが出たから」  私は小声でぼそぼそと答える。 「少しぐらい食べられるでしょう?」  母が咎めるように口を挟んだ。 「……」  私を見る母の目は常に暗い色だ。"もうひとりの娘"は依怙地で扱いにくく、何を考えているのか分からない――そんな心の中が溜息を漏らす口元に溢れている。 「麦ちゃん、私ね、明日ピクニックデートなの! それでお弁当を作ってるんだ。よかったら味見して感想聞かせてくれない?」 「……」  誰と――、など聞かなくても分かる。  睦美はここのところ毎日、碧と会っている。睦美に頼まれたアナウンススクールの資料を部屋へ届けたとき、たまたま置きっぱなしのスマホにメールが入ってきた。そこに『碧』と表示されていた。 「……忙しいから」  私は素っ気なく答えて、そのまま階段を上がった。睦美とふたりでいる時以外は、睦美が望んだ通りの『陰鬱な麦』でいるために。
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