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2.捻じれる初恋(睦美)
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家の近くで立ち止まっている男がいた。飲食店も公園もない住宅街では珍しい光景だ。
睦美は好奇心からその背中を目で追った。
ベージュの春コートに細身のテーパードパンツ、ウェーブのついた髪は春嵐で流れている。髪をかき上げながら男が振り返ろうとした。睦美は不自然にならないよう俯き、その横を通り過ぎた。一瞬見えた眼鏡の横顔が綺麗で出会いをふいにしたことを少し後悔し、いや――これ以上遊ぶ男を増やすと面倒だ、と思い直す。さっきも睦美を巡って男たちが言い争いをしたばかりだった。
……こっちは別に、たいして好きじゃないんだけどね
睦美は肩をすくめ、ゆるく巻いた長い髪を後ろ手で束ね片側に下ろした。
「むーちゃん?」
家の門扉に手を掛けると、後ろから呼び止められた。
「!」
睦美は反射的に振り向いた。さっきの、横顔の綺麗な男だ。
「よかった、一回で会えた」
近寄ってきた男を見上げた。
「――むーちゃんだよ、ね?」
「そうだけど、誰ですか?」
睦美は目を細め眼鏡の奥を探った。ブルーのカラーレンズが邪魔をして肝心の目元が見え難い。
「俺のこと忘れちゃったか……まあ、そうだよな、返事こなかったし」
「?」
「碧――って名乗っても、覚えてないのかな」
湿った声が色っぽくて、耳を澄ましたくなる。
「約束したろ? 大人になったら会おうって」
「……」
睦美は顎に手を当てて記憶を辿った。『大人になったら』ということは子供の頃に出会って離れたということだ。転校していった友達?
だが思い出せなかった。
「れいちゃんもこっちに戻ってきてるんだ。また三人で会いたいね」
「……」
れいちゃん、という聞き馴染みのない名前に違和感を抱き、続けて男が口にした『返事』や『三人』に意識が吸い寄せられた。
「俺のすぐ後にれいちゃんも引っ越したって後から知ったんだ。ごめん……、残された方は、寂しいよな」
「……」
ああ……、あれ、か
睦美はようやくすべてを繋げた。
「もしかしてアオくん?」
睦美は驚いたふりで両手を口元にあてた。
自分がこの家に来る前、妹の麦には特別親しくしていた友達がいた。ひとりは病気を治すためにアメリカへ渡り、もうひとりは一学期の終わりとともに引っ越した。そういえば、しばらく手紙やハガキが届いていた。抜き取って捨てていたため麦には渡っていないが。
……ふーん、この男、麦との約束をずっと大事にしてきたんだ?
「会いに来てくれて、嬉しい」
面白くない気分を隠し、睦美は目をキラキラさせる。
当時の麦はお節介でお喋りで、猿のように高いところに登りたがる無駄に元気な女の子だった。突然現れた双子の姉に『自分の持っているものは全部分けてあげる』とでも言わんばかりに真っ直ぐな使命感を向けてきた。うっとおしくてたまらなかった。
……いいこと思いついた
睦美はニヤリ、とする。
……麦がバイトなんか始めたから退屈してたんだよね
「目、治ったんだね。良かった」
碧の正面でつま先立ちになり両手を伸ばした。
麦から聞かされたことや手紙の内容を思い出して口にする。
「あ、えっと」
動揺した碧の、赤みがさした頬に手応えを感じさらに顔を近づける。その頬に手を添え純真を装って眼鏡の奥を覗き込む。
「ちゃんと見えてるんだね、アオくん」
「――う、ん。見えてるよ」
「本当に良かった……あ、ごめん」
睦美は、咄嗟に触れてしまったことを恥じるように慌てて離れた。やりすぎると、良くない。固まっていた碧の体が数秒かけて弛緩する。睦美が触っていた頬を名残惜しそうに指でなぞったのは無意識だろう。
「今までのこと、いろいろと教えてくれる?」
睦美ははにかみながら門扉から手を離した。
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