3.私はここにいるよ 

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    *  惨めな気持ちで、滲んだ涙を拭った。  意識の奥のその先の、もっと奥まった静かな場所に保存していた大切な記憶が今、散らばろうとしていた。切迫感の中、必死に言い聞かせる。――元の場所へ沈め、沈め、と。 「……っ」  重い足先を一歩、進ませた。また一歩。一歩。  そうやって、ただ前を見て、歩くことに集中する。  このままなにも見なかったことにして、碧がまだ遠い場所にいて物理的に会えないまま――、ということにして、すべてを忘れてしまえればどんなに楽だろう。         *  空が暗くなってから部屋のドアが開いた。 「麦ちゃん、今日は早かったの?」  睦美が帰ってきた。私の帰宅から一時間以上が過ぎていた。 「うん、早番だったよ」 「私もね、今日は早く帰るつもりだったんだけどね」  睦美はいつになく機嫌が良かった。そのままてのひらが向かってくる。 「どうか、した?」  その行動の理由が分からず怯えながら聞いた。 「出して、スマホ」 「え……」 「早く」  逆らうことなどできない。私は黙ってスマホを渡した。  これまで何度か睦美にスマホのチェックをされたことがあった。そのことをふと思い出し、念のため麗の名前を『琴乃・担当』に変えておいた。そのめいたものに救われたことに安堵する。睦美に、麗の存在を知られたくなかった。  ひと通りの確認が済んだのか、睦美は満足そうに言った。 「麦ちゃん、大丈夫? ちゃんと友達いる?」  心配を口にする睦美の目元は楽しそうだった。 「……」  返されたスマホを受け取りポケットに戻した。 「ねえ、麦ちゃん、最近なにか変わったことなかった?」 「変わったことって?」 「んー、たとえば誰かに会ったとか」 「どういうこと……?」  必死にとぼけた。 「心当たりがないならいいよ」 「……」 「そうだ、麦ちゃんって好きな人いるの?」  唐突な質問だった。 「いないよ」 「どんな男がタイプなの?」 「……」  睦美がなにを言いたいのか、私からなにを聞き出したいのか慎重に考え、答えなければと思う。 「タイプとか、よくわからなくて」 「じゃあさあ、過去に好きな子ぐらいはいたでしょう? 子供の頃とか」 「……」  碧とが頭の中でリンクする。もしかしたら睦美は碧のことが気に入ったのだろうか、と考える。  私は頬が引きつらないことを祈りながら口を開いた。 「そういうのはないかな。まだ、誰のことも好きになったことはないかな」 「へえ?」  睦美はじろじろと見てきた。 「……」  無音に耐えられず笑いかける。 「うーん」  睦美は迷っている素振りを見せた。 「……」  もどかしい時間だった。虚空のどこかで時限爆弾が動き出すのを感じる。睦美に聞きたい。なぜ碧とファミレスにいたのか、碧とどんな話をしていたのか、私と間違って声を掛けたのだとしたら、なぜ今、そのことを私に言ってくれないのか。 「ねえ、麦ちゃん、カレシ作った方がいいよ」 「……急にそんなこと言われても」 「私が麦ちゃんにぴったりなカレシ探してあげるから」 「……」 「そうすれば私のカレとダブルデートできるし」 「……むーちゃん、新しい恋人できたの?」  質問は生意気だと怒られることを覚悟しながらも、静かに聞いた。 「ふふふ」  だが今日の睦美は機嫌が良い。 「そうなの。近々できる予定なの」 「……」  大学生になったらたくさんの出会いがあるはずだからと、睦美は高校卒業と同時に恋人と別れた。いつものように別れの理由はせいになった。特別、感情は動かなかった。悪者にされることに慣れてしまっていた。 「運命感じたんだあ」  睦美は歌うように言った。 「実は今日のことなんだよ。ふふ」 「そうなんだ、ね」  睦美が感じた『運命』は碧のことなのだろうと、喪失感と共に受け入れた。 「あとで紹介するから楽しみにしてて」  華やかな笑顔を残し、睦美は部屋を出て行った。  睦美の背中を見送って私は……、私は――、額を押さえ声を殺して泣いた。  麗と再会したことで欲が出てしまった――その罰を受けているような気がした。  バイトは、辞めよう……。  に戻って、麗も碧も記憶の中へ帰そう。そうすれば傷つくことも、誰かに奪われることも、ない……。  私は静かに決意した。
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