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*
惨めな気持ちで、滲んだ涙を拭った。
意識の奥のその先の、もっと奥まった静かな場所に保存していた大切な記憶が今、散らばろうとしていた。切迫感の中、必死に言い聞かせる。――元の場所へ沈め、沈め、と。
「……っ」
重い足先を一歩、進ませた。また一歩。一歩。
そうやって、ただ前を見て、歩くことに集中する。
このままなにも見なかったことにして、碧がまだ遠い場所にいて物理的に会えないまま――、ということにして、すべてを忘れてしまえればどんなに楽だろう。
*
空が暗くなってから部屋のドアが開いた。
「麦ちゃん、今日は早かったの?」
睦美が帰ってきた。私の帰宅から一時間以上が過ぎていた。
「うん、早番だったよ」
「私もね、今日は早く帰るつもりだったんだけどね」
睦美はいつになく機嫌が良かった。そのままてのひらが向かってくる。
「どうか、した?」
その行動の理由が分からず怯えながら聞いた。
「出して、スマホ」
「え……」
「早く」
逆らうことなどできない。私は黙ってスマホを渡した。
これまで何度か睦美にスマホのチェックをされたことがあった。そのことをふと思い出し、念のため麗の名前を『琴乃・担当』に変えておいた。その予感めいたものに救われたことに安堵する。睦美に、麗の存在を知られたくなかった。
ひと通りの確認が済んだのか、睦美は満足そうに言った。
「麦ちゃん、大丈夫? ちゃんと友達いる?」
心配を口にする睦美の目元は楽しそうだった。
「……」
返されたスマホを受け取りポケットに戻した。
「ねえ、麦ちゃん、最近なにか変わったことなかった?」
「変わったことって?」
「んー、たとえば誰かに会ったとか」
「どういうこと……?」
必死にとぼけた。
「心当たりがないならいいよ」
「……」
「そうだ、麦ちゃんって好きな人いるの?」
唐突な質問だった。
「いないよ」
「どんな男がタイプなの?」
「……」
睦美がなにを言いたいのか、私からなにを聞き出したいのか慎重に考え、答えなければと思う。
「タイプとか、よくわからなくて」
「じゃあさあ、過去に好きな子ぐらいはいたでしょう? 子供の頃とか」
「……」
碧と子供の頃が頭の中でリンクする。もしかしたら睦美は碧のことが気に入ったのだろうか、と考える。
私は頬が引きつらないことを祈りながら口を開いた。
「そういうのはないかな。まだ、誰のことも好きになったことはないかな」
「へえ?」
睦美はじろじろと見てきた。
「……」
無音に耐えられず笑いかける。
「うーん」
睦美は迷っている素振りを見せた。
「……」
もどかしい時間だった。虚空のどこかで時限爆弾が動き出すのを感じる。睦美に聞きたい。なぜ碧とファミレスにいたのか、碧とどんな話をしていたのか、私と間違って声を掛けたのだとしたら、なぜ今、そのことを私に言ってくれないのか。
「ねえ、麦ちゃん、カレシ作った方がいいよ」
「……急にそんなこと言われても」
「私が麦ちゃんにぴったりなカレシ探してあげるから」
「……」
「そうすれば私のカレとダブルデートできるし」
「……むーちゃん、新しい恋人できたの?」
質問は生意気だと怒られることを覚悟しながらも、静かに聞いた。
「ふふふ」
だが今日の睦美は機嫌が良い。
「そうなの。近々できる予定なの」
「……」
大学生になったらたくさんの出会いがあるはずだからと、睦美は高校卒業と同時に恋人と別れた。いつものように別れの理由は私が邪魔をしたせいになった。特別、感情は動かなかった。悪者にされることに慣れてしまっていた。
「運命感じたんだあ」
睦美は歌うように言った。
「実は今日のことなんだよ。ふふ」
「そうなんだ、ね」
睦美が感じた『運命』は碧のことなのだろうと、喪失感と共に受け入れた。
「あとで紹介するから楽しみにしてて」
華やかな笑顔を残し、睦美は部屋を出て行った。
睦美の背中を見送って私は……、私は――、額を押さえ声を殺して泣いた。
麗と再会したことで欲が出てしまった――その罰を受けているような気がした。
バイトは、辞めよう……。
元の居場所に戻って、麗も碧も記憶の中へ帰そう。そうすれば傷つくことも、誰かに奪われることも、ない……。
私は静かに決意した。
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