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「―――おじゃまします」
「真っ直ぐ行くと、突き当りの部屋が一応リビングだよ」
足音と声が近づいてくる。
「引っ越したばかりでまだ何も揃ってないんだ」
「そっかあ、でもこれからひとつずつ買い足していくのも楽しいよ。私でよければ、一緒に買いに行こ」
!
女の声は間違いなく睦美だった。私の体は一瞬にして硬直した。……どうしよう……睦美が来るなんて……どうしよう……でもアオくんと今日会うのは私たちのはずじゃ……違うの? どういうこと? もしかして日にち間違ったの? どっちが?
頭の中で疑問がぐるぐる、ぐちゃぐちゃと回る。
「座ってて」
「うん」
すぐ目の前、ドアを隔てた向こうに睦美がいる。
……。
ほんの少しだけ開けたドアの隙間から背中を向けている碧と横顔の睦美を見る。
「むーちゃんはアイスティだったよね」
碧がコンビニの袋からペットボトルを出した。
「うん、ありがとう。それにしても住まいの下がコンビニなんて最高だね」
睦美の声はいつもより高かった。
「冷蔵庫なくても困らないのはありがたいよ」
「うふふっ」
ふたりはとりとめのない会話をしていた。その空気は、ふたりが何度も会っていることを物語っていた。
……やっぱり、つきあってるのかな。
私は靴を持ったまま、その場にじっとしていた。逃げ出したいのに、惨めなのに、足は動かない。
「あのね、アオくん」
「なに?」
「私たち、その……そろそろ、つき合わない?」
!
ふたりがまだ友達のままという事実に衝撃が走る。ほっとした直後、この状況に身構えた。
「私にとってアオくんの存在はもう特別なの」
睦美は潤んだ目を向けていた。
「アオくんにとっても私は、そうでしょう?」
……。
私は知らずに下唇を噛みしめていた。……この先の展開は想像がつく。だって、睦美を拒否する男なんて見たことがないから。
「……」
けれど碧は黙ったままだった。上目遣いだった睦美の目が左右に動く。
「あの、アオくん……?」
「むーちゃん、軽蔑されるの覚悟で言うよ」
碧の表情は見えないがその声は静かだった。
「俺にはカノジョの条件があるんだ」
「どんな?」
「まずは体の相性で」
「!」
睦美も驚いている。そして私も。
「今までも関係を持ってからつきあうかどうか決めてきたんだ」
「……そう、なんだ」
碧の声はひどく落ち着いている。突き放すようにも聞こえるそれに、たぶん睦美は動揺しているはずだ。聞いている私もそうだから。
「ごめんね?」
背中しか見えない碧は首を傾けている。けれどその言葉には余裕と同情が乗っていた。
……まさか、睦美は振られたの?
嬉しいと思ってはいけないのに、ほっとしてしまう自分がいた。
「―――私が、それでもいいって言ったら?」
少しの沈黙の後で睦美が思いつめた声色を向けた。
「んー、むーちゃんがそれでいいなら。でもつきあうかどうかは約束できないよ?」
「わかった」
そういって睦美は立って服を脱ぎ始めた。
……え? ……え? ……え、待って。
私は脳内でパニックになる。
だって睦美の胸元には醜い傷痕があるのに……。それを見せられないから、今までつきあった人とは深い関係になる頃に別れてきたはずで……。
「アオくん、抱いて」
!
睦美は下着だけになっていた。
「綺麗だね」
碧が、睦美の胸元にかかる長い髪を肩の向こうへと流した。
!
そのとき、はっきりと見えた。
睦美の白い肌のどこにも醜い傷痕はなかった。
……どういうこと? どうして傷が消えてるの? 治ったの? それとも治したの? いったいいつ?
心臓がばっく、ばっく、ばっく、とどんどん大きくなった。
「私の全部、アオくんにあげるよ」
「念のために聞くけど、初めてじゃないよね?」
「……」
「ごめん、俺、処女は苦手なんだ」
「ううんっ、私、初めてじゃないよ。今までカレシいたし」
「何人とした?」
「……」
「ひとり? ふたり? もっと?」
最後の問いかけに睦美がコクンと頷いた。
ハア、ハ、ハ、ハッ――
呼吸が勝手に大きくなる。過呼吸を起こしかけ、私は脇目もふらず玄関へと繋がるドアに向かって走った。「誰かいるっ」という睦美の悲鳴に近い声が聞こえてきたが、私は靴を胸に抱いたまま、鍵のかかっていない玄関から外へ飛び出した。
そうして何時間も掛けてようやくひとつの真実に辿り着いた。
あんなに醜い傷痕が、なにもなかったように消えるわけがない。ならば睦美の胸元には最初から、傷なんてなかったのだ。
私は……
私は騙されていたのだ、ずっと。
【一章終わり】
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