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6.麦の決意
碧のアパートから逃げ出した後、どこをどう歩いて自宅へ戻ったのか思い出せなかった。
「や、やだ、やだ、やだやだ、やだ……」
何に対しての否定なのか、拒否感なのか、混乱の中で自分の上擦った震える声を聞きながら、もつれる足で階段を駆け上がった。
「はあ……はあ、は……は、はは、は、ははははっは」
自分の部屋に入った瞬間、気が触れてしまったのかと恐怖するほど、激しい笑いが込み上げてきた。閉じたドアに背を預けたままずるずると腰を落とした。
「……」
床にぺたっと両手が付き、笑い声も同時に止まった。しんとした部屋の中、過去が一気に押し寄せてくる。
「……なんで、騙したの」
言葉にしたら闇の中で導火線が現れた。
「……何の目的でっ?」
そこに火をつける直前まで迷っている自分がいる。この現実が受け止めきれなかった。だって睦美は家族で、たったひとりの姉妹で、こんなことをする理由が分からないのだ。
「むーちゃん……、睦美、なんでよ、なんで……」
考えても考えても、分からない。
「そんなに私が、嫌いだったって、こと?」
その結論以外に答えなどあるだろうか。
これまでの日々が細切れに脳裏を流れていった。と同時に、睦美に騙されなければ当然あるはずだった平和な日常を想像せずにはいられなかった。……親に甘えたかった。……友達とたくさん遊びたかった。……楽しいこと、いっぱいしたかった、睦美のように。
「っう、うっ、ううっ」
悔しい、などという簡単な言葉では事足りない。ただただ涙がとめどなく流れてくる。
あの怪我から、睦美は私が持っているものすべてを奪っていったのだ。言動も、表情も、友達も、両親も、“あだな”さえも。
「悔しいっ、くやっ、くやしいっ、……っく、くやし――っ」
加害者として生き続けた長い年月、なんのために我慢し、苦しみ、罪の意識に苛まれてきたのか。睦美を恨みそうになるたびに自分を責め、卑屈になった。睦美に許してもらうことが私の人生のすべてだったのに。
「―――もう、いい」
どれほど泣いても、喚くように叫んでも、両手の拳で床を叩きつけても、冷静になれない。頭の中の不協和音も止まらない。
片手で頭を押さえ、よろりと立ち上がった。
……確かなことはひとつなんだ
私は、ゆらゆらと虚空を睨む。
……睦美には最初から傷跡なんてなくて、私はただ騙されていた。
理由などあろうがなかろうが、それだけが現実だ。
「―――したことの責任は取らないとね」
低い声が出た。
自分が失ったこれまでの人生は戻ってこない。だけど“なかったこと”にはできない。なにより私はそんなに弱くない。やられっぱなしなんて、ありえない。
長い間隠れていた本当の自分がたった今、目を覚ました――そんな感覚だった。
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