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クローゼットの奥に手を突っ込で、重ねた洋服の間からクッキーの空き缶を取り出した。蓋を開け、床にお札と小銭を広げる。
―――四十万と少し。
バイトを始める前に数えた時の金額だ。
お年玉や毎月の小遣いだけじゃなく、学校に必要なものを買うために貰う金も美容院代も、極力使わずに貯め続けた。睦美は何も言わなかった。逆に、「麦ちゃんに靴を買ってあげて」「眼鏡を買ってあげて」と母に財布を開けさせていた。……私が買わないことを知っていながら。
そうか、いずれお金は自分の元へくると分かっていたから。
「っ、」
睦美の思う通りに動いていた自分が滑稽すぎたが、笑えなかった。
数えたお金を乱暴に財布に詰め込んだ。
「……」
そして、入りきらないほとんどを元の缶へと戻した。
――冷静になれ、
何度自分に言い聞かせたか分からない言葉をまた、呟く。
このままでは前に進めない。
奪われたものが二度と取り返せない過去だということは分かっている。だけどせめて私が被った泥を払い落として、可能ならば洗い流して、その泥水を睦美の足元へ――いや、膝の上へ――返したい。汚く濁った泥水に浸かった睦美を見ることができたなら、私は自分の人生を取り戻せるだろうか。
「……っ」
震えてきた肩に必死に呼吸を送る。
……取り戻す以前の問題だ。そうでもしなければ、騙されて失ったこれまでの日々が名残惜しくて……生きていけそうにない。
傷だらけの机に両手を置いた。
「……」
小学生の頃から使い続けている勉強机だ。思春期になり、睦美は早々に大人びた机と取り換えてもらっていたが、私にその権利はなかった。
部屋の中をぐるりと見渡す。どれもこれも、睦美がこの家にやってくる前から使っていたものばかりだった。新しく買い足したものは、体の成長に合わなくなった、この椅子ぐらいしかない。
私は椅子を引き、へこんだシートに座った。スマホを取り出しいつものように“遠回り”しながら自分のページに辿り着く。
SNSに自分の境遇や感情を書き始めて二年が経った。睦美にされたこと、命令されたこと、思いつくまま遡って羅列していくだけの鍵のかかった場所。
時計を見る。
午後七時、階段の下から母が夕食の支度をする音が聞こえている。睦美の気配はまだない。……碧と、あの続きをしているのか。
「……っ」
今は余計なことを考えている場合じゃない。
想像し始めたそれを、頭を強く振って振り払った。
立ち上がり電気をつけ、スマホに戻った。
【今日、残酷な真実を知った。
私は罪の意識を利用されていた。
私は、ずっと騙されていたんだ】
ひたすら指を動かした。
書き続けるほどに、思考は鋭敏になっていった。頭の中にあるひどい出来事だけじゃなく封印した記憶も蘇り、無駄に傷つきながら、それでも記憶を整理することを止められなかった。
―――タンタンタン……
!
階段を上がってくる足音に、強制的に集中力が途切れた。
私は慌ててスマホをポケットに戻した。
いつものようにノックもなしにドアが開いた。
「……むーちゃん、おかえり」
睦美の顔は見れなかった。見れるはずがない。その目を見てしまえば、私はこの怒りを、悔しさを、悲しさを、すべて見透かされてしまうだろう。そうなれば私の胸に広がった決意を遂行できなくなる。
「ごはん」
睦美の声は尖っていた。
「……ありがとう」
睦美が強制したことではあるが、私は『睦美が一緒じゃないとご飯を食べない』ことになっている。だから母は睦美を伝言役にして私を食卓に呼ぶしかなかった。そして私も、睦美の帰りが遅い日は特に、鳴り続けるお腹を擦りながら部屋でじっとしているしかなかった。
どうして睦美がそんなことまで望むのか、今までは深く考えることをしなかった。だがすべてを知った後、その理由はひとつしかなかった。
睦美は、自分がいないところで私と親を接触させたくなかったのだ。いつ私が苦しさに耐えかねて親に助けを求めるか分からないから。
「ねえ、麦ちゃん、大学生になったんだし、もう外で食事済ませてきたら?」
「……」
「で、私より遅く帰ってきてよ」
「……」
睦美はいつになく機嫌が悪かった。
……アオくんと、うまくいかなかった?
何があったのか、聞きたい気持ちをぐっと我慢してただただ俯いたままでいた。
「はあ」
大きな溜息が聞こえる。
「とりあえずさっさと食べてくれる? 私、今日すっごい疲れてるから、早くお風呂入りたいし」
「……わかった」
私はもぞもぞと立ち上がり、睦美の背中を見ながら階段を下りた。
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