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「今からバイト?」
友人たちが足音も立てずに寄ってきた。私と同じくらい地味な見た目の彼女たちは、やはり私と同じに普段から気配を消して過ごすクセがついていた。
「そう。初出勤だからめっちゃ緊張してる!」
「『うどん愛』が高じてとうとううどん屋さんでバイトだもんね」
「へへへ」
私は頭を掻いた。
今日から働く店は、うどんで有名な県から首都圏に進出した和食店、琴乃の新規店だ。
幼い頃、毎日のように遊んでいた大好きな友達が引っ越していったのも、母親の実家である香川県だった。遊びに行くと彼女の母親が美味しいうどんを作ってくれた。あの頃から、うどんは『死ぬ直前に食べたいもの』の不動の一位になった。
「楽しみだね、まかない」
そっと感傷に浸っていると肩を突かれた。
「ちょっとちょっと、それが目当てみたいに……」
「中らずと雖も遠からず、でしょ」
いつも穏やかだけどユーモアのある彼女たちが私は好きだ。外見が地味だとして、中身がそうとは限らない。
――類は友を呼ぶって言うけど、あの子たちと麦ちゃんって雰囲気そっくりだよね。
睦美に嘲笑われても気にならなかった。だが『気にならない』ということを私は睦美に隠した。そうしなければ彼女たちと離れるよう強要されることを学習したからだ。睦美は、私が幸せでいることを許してくれない。
「今度食べに行くね」
「うん。――あ、でも私、フロアじゃなくて厨房だから来てもらっても会えないかも」
「麦ちゃんが働く店はオープンキッチンじゃないんだね」
「ないない」
私は身震いした。
「厨房がお客さんから見えないことは確認済みだよ!」
「でも忙しくなったら駆り出されるんじゃない?」
「え、それはないと……思い、たい」
郊外に建てたファミリー層向けの店舗よりもサラリーマンやOL、買い物に出てきたマダム層を狙っている、と面接の中で教えてもらった。うどんがメインだが丼ものやデザートもあり、特にアルコール類を豊富に取り揃えているらしい。
「最初は厨房担当でも途中からフロアへ移動とかになりそうじゃない? ほら、麦ちゃん美人だし」
「面接のときにそこは念を押したから大丈夫だと思うなあ」
“美人”と言われたことはスルーし、会話を繋げる。睦美と似ているこの容姿については、あえて気に留めないようにしていた。
「なら安心だね。頑張って」
「うん。ありがとう」
手を振って別れた。
大学生になったら真っ先にしたいことがあった。
それがアルバイトだ。
高校までは校則で禁止されていたためしたくてもできなかった。睦美の胸の傷を治すにはお金が必要で、毎月のお小遣いやお年玉はほとんど手を付けずに貯めているが、まだまだ足らなかった。
睦美は傷痕のことを親に相談していない。
言えば、医師の父と看護師の母ならどんなことをしてでも腕のいい専門医と病院を探してくれるはずだ。それなのに頑なに拒否する。“親に話したら死ぬ”とまで言う。理由は分からない。聞くと発狂するため話題にもできなくなってしまった。
中学生になってすぐ、睦美は一度だけ胸の傷痕を一瞬、見せてくれた。赤黒く沈着したそれは棘のようで、私は両手で顔を覆い蹲った。涙がとめどなく溢れてきた。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい……ごめんな、さい……」
他になにひとつ言葉が出てこなかった。睦美は黙ったまま、私を見下ろしていた。
あの日、私の人生は決まった。
私は睦美のために、睦美が望むまま生きていくと。
それが償いだと。
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