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バイト先となる和食店の前で一旦立ち止まった。
少し迷い、眼鏡をはずしてバッグにしまった。
……ここでだけ、いいよね
誰も私のことを知らない場所で、ほんの少しだけ息をつきたかった。
「朝礼終わる前でちょうど良かった。宮原さん、こっちへ来て」
恐る恐るドアを開けると従業員が整列していた。私は慌てて会釈した。
「今日から厨房に入ってもらう宮原さんです」
肩を小さくし、面接の際もお世話になった店長の横へ並んだ。
「初めてのアルバイトだそうです! 分からないことは何度でも教えてあげてください。みなさん、親切にね。では今日も明るく、楽しく、仲良くやりましょう!」
店長の言葉の後で、私はぺこ、と頭を下げる。
胸がどきどきした。親切に、明るく、楽しく、仲良く、だなんて――もし、本当にそう接してくれたらすごく嬉しいけど。
「宮原さん、従業員の出入り口とロッカーを教えるからこっち来て」
「は、はい」
言われるがまま後を付いていく。そっと周囲を窺うと、皆笑みを湛えてお辞儀をしてくれた。
「……」
見下される視線に慣れてしまっている私の心は、その温かさに戸惑い、そして気を引き締める。
バイトに来てよかった。
精一杯がんばろう、嫌われないように――と願った。
私はこの日誠実に働いた、と思う。
食器の洗い方、戻し方、整理整頓の仕方、覚えるルールもたくさんあったが迷惑を掛けないように頭に叩き込んだ。
「むーちゃん」
「!」
バイト終了の時間が近づいてきた時だった。自分を呼ぶ声に反射的に振り返った。
今『むーちゃん』と呼ばれるのは姉の睦美だが、私がまだひとりっこだった頃に呼ばれていた愛称も『むーちゃん』だった。
「私だよ、麗だよ」
「え……、れいちゃんって、あの……? え、でも」
自分を今も「むーちゃん」と呼ぶ女の子にひとりだけ心当たりがあった。けれど、まさか……、そんなはずない、という思いが疑いとなって声に乗った。
「私の知ってる『れいちゃん』は引っ越して……」
“琴乃”のユニフォームを着たショートカットの女の子をおずおずと見る。
「そう、その『れいちゃん』が私」
「ほ、ほんとに、あの、れいちゃん?」
「うん!」
「いつ? いつ、こっちに戻ってきたの? ここでバイトしてるの? いやでも、大人っぽくて、全然気づかなかった」
あまりの動揺に早口になってしまう。麗が笑い出す。上がった目元と高い頬骨に幼い頃の面影が重なった。でもピアスの耳元ときれいな色のリップが、私たちの上を通り過ぎたたくさんの月日を感じさせた。
「そういうむーちゃんは、こんな“しおらしい感じ”の女の子だったかな?」
「そうかな……」
顎を引いた。
子供の頃の私は、お転婆で、お喋りで、麗に負けず劣らず天真爛漫だった。そのことを忘れていたわけではない。ただ、あまりにも遠い記憶だった。
「宮原さん、お嬢さんと知り合いなの?」
今日一日丁寧に私に仕事を教えてくれたスタッフが高い声を出した。その音量にまた驚き……って、え?
「お嬢さん?」
「そう。社長の娘」
「!」
二度見する私に、麗は豪快に笑った。
「ははは。そう。あの貧乏れいちゃん家が、今じゃこんなことになってるのよ」
そのストレートな物言いに、裏も表もなかった子供の頃の麗が垣間見えた。
「てか、“うちの店”だって気づいてバイト募集に申し込んでくれたんじゃないの?」
「!」
私は放心のまま、小刻みに首を振った。
「し、知らなかった。で、でも、れいちゃんのお母さんのおかげで、うどんは私の一番好きな食べ物だから……」
「あは。嬉しい――ね、もうあがるよね?」
「あっ」
慌てて掛け時計を見上げた。バイトの終了時間五分前だった。
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