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帰宅と同時に親の小言を大人しく聞き部屋へ戻ると、睦美が入ってきた。
「なんでこんなに遅かったの?」
「……あ、うん、ちょっと説明聞いたり、質問したりしてて」
「たかが皿洗いなのに、なにがそんなに難しいの?」
「……そうだけど、決まり事が多くて、一回じゃ覚えられなくて」
充実した一日が心地良い疲労感を連れてくる。私は俯いたまま、小声で嘘の言い訳をした。睦美は顎の先に手を当てて私を見ていた。
「……」
楽しかったなんて、つかのまの“自由”にほっとしていたなんて知られたら大変だから、私は睦美の視線が離れるまでじっとしていた。
「あのさ、麦ちゃん。私のために働くって言うけど、私はそんなこと望んでないから、大変だったらすぐに辞めてもいいんだよ」
「……」
この言葉だけを聞けば『妹を心配している優しい姉』に思える。だが額面通りに受け取ることはできない。
「私の傷跡のために無理しないで。私は一生このままだって構わないんだから」
睦美は傷跡と引き換えに、私を永遠の“罪人”にしておきたい。それほどまでに私を憎んでいるのだ。
「むーちゃん……、ごめんね」
何万回と呟いた謝罪はいつだって本心だ。だけどそれが何になるというのだろう。どんなに心を込めても伝わらなければ意味がない。
「おやすみ。また明日」
受け入れてくれない睦美を詰る資格は、加害者にはない。
「……おやすみ、むーちゃん」
振り返らない背中にそっと返した。
* *
時間が許す限り、アルバイトを入れた。
お金を稼ぐことも重要だが、自分を知らない、外の世界の人たちとの一時が心地良く、なにより麗と会えることが楽しみだった。
「お疲れさま」
麗は、他の店舗で仕事をした後も必ず顔を出してくれた。厨房に人が足りないときは並んで皿を洗ってくれ、片づけをしてくれる。
「日曜日なのに入ってもらってよかったの? 昨日も働いてもらったのに」
「うん。休日は暇だし」
「大学生は恋にサークルに大忙しじゃないの?」
「まあ、そういう人もいるだろうけど」
睦美を脳裏に描いて言う。
「むーちゃんは違うの? 似合いそうだけどね」
「わ、私が?」
「再会の日も思ったけど、わざと地味にしてるよね。モテるの煩わしいとか、そういう感じ?」
おもいっきり首を横に振った。
麗の、私への評価が高すぎて身の置き場がない。
「あっ、そうだ。今の話題で思い出した!」
「な、なに」
話題が変わって安堵する。このまま内側に触れられ続けたら、自分の身の上をすべて打ち明けてしまいそうだった。
「アオくんのこと覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ」
私は即答した。
近所に住んでいた私たちより少し年上の幼なじみだ。事故に遭い目の視力が低下し続けていて、ぼんやりとした視界の中、音を頼りに過ごしていた。
「『碧くん』で、アオくん。アオくんのお母さんが『アオ』って呼んでたんだよね」
「そうだっけ? むーちゃん、記憶力いいねえ。私は毎回ケーキが美味しかったって思い出しかないよ」
「あはは」
碧との出会いは、彼の母親によるものだった。家の前で『うちにも小学生の男の子がいるのよ、ケーキがあるの、食べていかない?』と声を掛けられた。
―――「ケーキだって、どうする?」
知らない家に入ってはいけないことぐらい分かっていた。だが私と麗は食いしん坊だった。それに見上げる窓辺にいつも男の子がぼんやりしていたことにも気づいていた。
しばらく経ってから碧の母親が話してくれた。
家から出られない息子のために友達を作ってあげたくて近所に住む男の子たちを何人か招き入れたと。けれどケーキで釣っても食べ終えればソワソワしはじめる。息子の話し相手に――という思惑は空回りしてばかりだったと。そんな時、外を歩く私と麗が目に入ったらしい。
「アメリカに手術しに行ったんだよね」
日本ではできない手術で、最終的には家と土地を売り親族に借金をしてアメリカへ渡ったと聞いた。
「元気かなあ」
麗のこと同様、彼のことも忘れたことはない。三人で過ごした幼い頃の日々は私にとって最も幸せな記憶だったから。
「むーちゃん、アオくんにプロポーズされてたよね」
「いや……、あの会話にそんな意味はなかったと思うけど」
「それにさ、別れるときむーちゃんの手を握って『また会おう』って言ったよね」
「そ、そうだった、かなあ?」
とぼけたけれど、生まれて初めて胸がきゅうっと締め付けられた初恋の記憶は今もはっきりと取り出せる。
「アオくんね、こっちに戻ってきてるよ」
「えっ?」
懐かしさに浸かったまま、私は現実に戻った。
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