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ずっと、曇った分厚い硝子板を挟んで世界を眺めているようだった。
判然としないことばかりだった。
自分が誰かも。何を思っていたのかも。
なぜ、こんな理不尽な目に遭わなければいけないのかも。
北大井門の処刑台にある鉄柱から、色とりどりにくすんで、乾いた風が吹き抜ける帝都の街並みが見えた。最後に見るこの街の景色に思い残すことはあるだろうか。
ない、とリンは思った。
自分を取り巻くこの濁った世界に、思い残すことなど、…
「早くやれ」「燃やしちまえ」
「丸焼きだ、ハハハハハ、…」
大勢の人が押し寄せて、罪人を糾弾する声が聞こえる。
その声に背中を押されるように、役人が二人掛かりでたいまつを手に進み出てきた。
鉄柱の下に設らえられた木々や藁の山に火が放たれた。薄い煙を上げ、パチパチと音を立てながら火が燃え広がっていく。
「ハハハ、やった」「やったやった」
燃え広がる炎に照らされて、観衆に祭りのような熱気が湧き起こる。
「燃やせ」「燃やせ」「燃やせ」「燃やせ」
声を揃えて、観衆が熱狂する。
炎に焦がされるより先に、立ち昇ってくる煙に巻かれて息が苦しくなる。鉄柱を這い上る熱に括りつけられた身体があぶられる。
『ユキ、…――――――』
思い残すことはないけれど。
もしも最後に一つだけ願いが叶うなら。
リンは煙によどんだ空を見上げた。
「…、っ、……――――――――っ!!」
声にならない声を上げる。
ユキに会いたい。
最後に。一目でいいからユキに。
リンの乾いた瞳に一粒の涙が浮かんだ。
その刹那、リンの身体は真っ白な柔らかい毛並みに包まれていた。
濁り曇った世界に差す一筋の光のように、白き人狼が降りてきた。
汚れた世界に降る一片の雪のように。美しく。儚く。慈しみ深く。
白き人狼は、鋭い牙で瞬く間にリンを縛る縄を食いちぎると、リンを懐に抱いて空に飛んだ。
「な、なんだ!?」「ハイイロか!?」
「ハイイロが出たぞっ!!」
神々しいまでに美しい人狼が炎に捲かれた娘を連れ去るさまを呆けたように眺めていた観衆が我に返って騒ぎだす。白き人狼はひと跳びで高いビルのてっぺんに上り、後には灰色人狼たちが群れになって降りてきた。
傍観を決め込んでいた大衆たちは大騒ぎで、我先にと散り散りになって逃げ惑う。
「…悪かった」
何が起きたのかよく分からないリンに低く沁みる声が降り注ぐ。
低くて深い。優しく沁みる声。
「遅くなった」
瞬いたリンの目に最初に映ったのは、白い毛並みに掲げられた雪の結晶。目を上げると、首に美しく精緻な雪のチョーカーを着けた白い人狼が、青い瞳で慈しむように自分を見ている。
「…ごめんな?」
リンは首を横に振り、そのはずみで目からポロポロと涙が零れ落ちた。
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