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力弱い人間の、しかも子どもが握った雪玉など何の威力もなかったが、自分で投げた雪玉が当たったことに本人が一番驚いたようで、女の子は涙の溜まった目をいっぱいに見開いてユキを見つめた。
それから何を間違えたのか、雪に蹴つまづきながらユキの元に駆け寄ってきて、
「…ごめんね」
冷たく凍えた小さな手を伸ばした。
その手があんまり冷たくて、ユキは思わず自分の懐で女の子を身体ごと包み込んでしまった。小さくて、弱くて、冷たくて、震えている。ユキたち人狼は体温調節に優れているため、寒暖差をあまり感じないが、人間の母親は時折寒そうにしている。
雪まみれの女の子は、雪の匂いに混じって、ほのかに甘い匂いがした。
「あったかい、…」
女の子がつぶやいて、ほんのり笑うと、目じりから涙の粒が転がり落ちた。
それをユキが舌を伸ばして舐めると、女の子は驚いたように瞬いて、また涙がボロボロ零れ落ちた。
仕方がないので、それも舐める。
「ふふ、…くすぐったい、…」
やがて、蒼白だった女の子の頬が薄く色づき始め、女の子が無邪気な笑い声を上げた。
「名前、…」
その笑い声も余さず舐め取ると、ユキは女の子の琥珀色の瞳を覗き込んだ。その目は金色にも見える。
「なんて言う?」
金色の瞳を持つ人狼の中で、ユキの目は唯一青い。その瞳を女の子は眩しそうに見つめ返した。
「リン」
ユキはもう一度、リンの薄桃色を帯びてきた唇を舐めた。
「リン、俺が欲しくなったら呼べ。俺はユキ」
「ユキ、…」
リンの桃色の唇がユキの名前を紡いだ時、ユキの心臓はなぜか甘く軋んだ。
「うん、呼ぶ」
雪花のように眩い笑顔で頷くと、
「ユキ。きらいってゆってごめんね」
リンはユキの耳元に唇を寄せて、そっと囁いた。
リンを呼ぶ人間の声がする。
警備隊というらしい、街を清掃する人間たちが現れた。
「ありがとう」
リンはユキの懐から抜け出して、寒く凍てつく人間の夜の街に戻っていく。
怒号や悲鳴や嘆き声。残虐な物音に散らばる残骸。
行きかう人並みや馬車、警笛の音。空を切る人狼たち。
空から降り積もる雪が静かに、平等に、それらを覆い隠して、初めて触れた人間の女の子がもうどこにも見えなくなっても、ユキは白い毛並みを雪にさらして、雪の中にたたずんでいた。
それからずっと。
リンの声を待っていた。
飛んで行って、抱いてやりたくて。
それなのに。
「リン、…」
涙の跡が残るリンの瞼を優しく舐める。
恍惚のまどろみに彷徨い出てもまだ、従順にユキを咥え込むリンの小さくて柔らかい身体をそっと抱きしめた。透けるように白くてやわなリンの肌に、もう目立った傷跡はないが、人間を全員八つ裂きにしようかと思うほど、リンの身体は酷い有様だった。
「…もっと。俺を欲しがれ」
まどろみながらユキを締め付けるリンを優しく揺らす。
身体の傷は消してやれるが、リンが感じた恐怖や苦痛は消してやれない。ユキに出来るのはそれを上回る心地良さで満たしてやることだけだ。
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