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リンを庇うものはいなかった。
「ただねえ、男を狂わす魔性の血を引いているから気を付けて。男を許したらとんでもない反乱を引き起こすかもしれないわ」
久我宮の名が知られてはならないため、リンに客の相手はさせない取り決めだったが、リンを雇った女将は久我宮キヨコに激しく同意した。
あの琥珀色の瞳は見る者の心を惑わす。楼主である夫でさえ好色の目でリンを見ている。痴呆が感染する、病気持ちの女だと知らしめていなければ、とっくに手を出していただろう。
或いは、それでもリンに手を出す者がいたら、リンの境遇も変わっていたかもしれない。幸か不幸か、リンに手を出す者も、庇い立てする者も一人もおらず、程よく、死なない程度に、リンに対する虐待や暴行は公然と繰り返された。
リンは、どんなにひどい目に遭わされても泣かなかった。
表情を無くして押し黙っていた。
『ユキ、…―――』
リンには唯一、持っているものがある。
虐待や暴行が続いて、身体的な苦痛や辛さを感じても、冷たさや熱さを感じても、悲鳴も涙も出ない。記憶と共に感情も失ったようだ。
自分が何を見て笑い、何を思って泣いていたのか。何も覚えていない。
心を動かされるようなことは、何もない。
ただ、…
『ユキ、…』
その名前だけがリンの心を温めてくれた。
温かくて優しくて尊い名前。胸が締め付けられるような切なさと、自分を丸ごと受け入れてくれるような安心感を持つ名前。だけど、誰の名前かは分からない。
きっと、記憶を失う前、何よりも大切に思っていた名前なのだろう。
温かくて柔らかくて優しい。白くて強くて甘い。私だけの、…
『ユキ、…』
リンはその名前だけを抱きしめて眠りについた。
皮膚が破れ血にまみれ、腫れて熱を持つ。高熱が出て、身体中が割れるように痛む。
使用人部屋にも入れず、裏通りにある物置小屋兼厩舎に蹴り出され、片隅に積まれた藁の上で横になる。チクチクと藁が肌を刺し、傷をえぐる。眠っていても地獄のような苦しみに襲われる。
『ユキ、…』
唇の形だけで名前を呼んだ。
声にはならない。
いつか。思い出すことが出来るだろうか。
いつか。目にすることが出来るだろうか。
大切で尊い、私の、…
『ユキ、…』
いつか。
閉じた瞼の裏側に浮かぶ涙の粒を、流すことは出来るだろうか。
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